ネコによる福音書

~愛と癒しのスピリチュアルメッセージ~

奇跡のコース(A Course in Miracles)とは?-Nekopedia

実在するものは存在を脅かされることはありません。

非実在なるものは存在しません。

ここに神の安らぎがあります。

『A Course in Miracles』

※『A Course in Miracles』の引用は、「ヘレン・シャックマン記、ウィリアムセットフォード、ケネス・ワプニック編、大内 博訳『奇跡のコース』ナチュラルスピリット」によるものです。

 

愛だけが存在します。

愛でないものは存在しません。

ここにあなたの安らぎがあります。

『ネコによる福音書 0章 0節』

 

こんにちは。

愛のネコです。

わたしはあなたを愛しています。

 

今日は20世紀最高のスピリチュアルの名著『奇跡のコース(A Course in Miracles)』の内容を紹介します。

  

あなたにとってこの本との出会いが素晴らしいものとなりますように。

 

※このページは、Wikipedia「ACIM」の内容を修正・加筆したものです。

※著作権はWikipediaのライセンスに従います。

 

ACIM - Wikipedia

  

奇跡のコース 第1巻 テキスト―普及版

奇跡のコース 第1巻 テキスト―普及版

  • 作者: ヘレン・シャックマン,ウィリアム・セットフォード,ケネス・ワプニック,大内博
  • 出版社/メーカー: ナチュラルスピリット
  • 発売日: 2014/06/25
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
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奇跡のコース 第二巻 学習者のためのワークブック/教師のためのマニュアル―普及版

奇跡のコース 第二巻 学習者のためのワークブック/教師のためのマニュアル―普及版

  • 作者: ヘレン・シャックマン,ウィリアム・セットフォード,ケネス・ワプニック,大内博
  • 出版社/メーカー: ナチュラルスピリット
  • 発売日: 2015/11/13
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
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奇跡のコース(A Course in Miracles)とは?

原題「A Course in Miracles(ア・コース・イン・ミラクルズ)」。

「奇跡のコース」「奇跡についてのコース」「奇跡の学習コース」「奇跡の道」「奇跡の講座」とも訳される。

ACIM、コースと呼ばれることが多い。

イエス・キリストから来たとされるインスピレーションをヘレン・シャックマン助教授(医療心理学 アメリカ・ニューヨーク州コロンビア大学)が文章化し、ウィリアム・セットフォード教授(臨床心理学 同大学)が編集、ケネス・ワプニック博士(児童心理学)が校正。

3人が専門としていたフロイト派心理学のフレームワークが反映されており、エゴを、人類が共有するひとつの#心が患った根源的精神疾患と捉え、これを治癒する心理療法的アプローチとして#赦しの効用を説く。(チャネリングや自動書記というのは一部誤り→#由来)

過去や未来(#時間)は、エゴが意識に投影した幻影に過ぎず、自分の外にあるはずの#世界も実際は心理的投影であり、この幻に操られて自他を裁く感情を正当化している限り、"現実"は決して認識されないとする、挑戦的な世界観(不二一元論)を669ページのテキストで詳説。

いかなる例外も設けない、#赦しの実践がもたらす内なる平安のみが、意識に投影された世界の悪夢を治癒し、万人共通の#心をリアルな世界(無条件の#愛)へ回復させることができる(#奇跡)として、これを1年かけて独習する488ページのワークブックにまとめている。

1976年に出版。

20ヶ国語に翻訳され、累計販売数は200万部以上。

書籍のジャンルとしては精神世界・心理学に、思想的には不二一元論に分類され、心理学的にはポスト・フロイト主義に近い。

ジェラルド・ジャンポルスキーが晩年のウィリアム・セットフォードと協同して、ACIMの心理学における#赦しのプロセスを応用したアティテューディナル・ヒーリングという心理療法を創出し、彼の400万部のベストセラー『愛とは、恐れを手放すこと』と相まって世界的に受け入れられている。

「世界はエゴの幻影にすぎず、現実のみが神である」とするなど、ニュー・エイジと対立するものの、エゴの本質・赦しの効用・今を生きる価値といったテーマを自己啓発の著名教師たちが引用してポピュラーなテーマとなったことから、精神世界にも一定の#影響力を持つ。(「#愛の反対は憎しみではなく、恐れである」というフレーズはACIMが初出)

#用語はフロイト派心理学のものとキリスト教のものが使用されているが、キリスト教とは神学を異にする。

アメリカの新宗教を専門とするJ. Gordon Melton博士によると、組織を必要とせず独学できる『履修課程(A Course)』として#構成されているため、宗教組織に幻滅したクリスチャン層に人気がある。

シャックマンやセットフォードたちが属していたニューヨークのインテリ層からムーブメントが始まったこともあり、読者に知的職業従事者の割合が高いことも特徴である。

奇跡のコースの影響力

対立する内容も多いながら、アメリカのニューエイジ全般に影響力がある。

20ヶ国語に翻訳され、世界的な知名度も低くない。

ACIMの関連書は多くのミリオンセラーを出しており、原書を含めた累計は1000万部を超える。

アメリカでの知名度

1979年、世界的に著名な心理療法士ジェラルド・ジャンポルスキーが『愛とは、怖れを手ばなすこと』を出版した。

宗教性を取り除いたACIMのエッセンスが受け入れられて、400万部(2007当時)を記録。

1995年、出版業界二番手のペンギンブックスからもACIMの出版が決まり、アメリカ読書界に強大な影響力を持つオプラ・ウィンフリーの番組に、マリアン・ウィリアムソンが出演。

自著『愛への帰還』の題材であるACIMについて語った。

これがきっかけで、『愛への帰還』はNYタイムズ・ベストセラーに39週ランクイン。

ホワイトハウスに招待されるなど、マリアンは時の人となり、ACIMの累計売上を50%伸ばすことにつながった。

2005年、ACIMを会話スタイルで解説した『神の使者』(ゲイリー・レナード著 )が、Amazon.comの総合ランキングでハリー・ポッターに次ぐ二位を記録。

ACIMはアメリカで一気に突出した。

ニューソートと親和性が高いことから、ユニテリアン教会でもACIMの勉強会が開かれている。

シャックマン助教授がヒュー・リン・ケイシー(神秘家エドガー・ケイシーの息子)と親交があった(#由来)ことから、ケイシー財団(RAE)でもACIMの勉強会が開かれることがある。

日本での知名度

ニール・ドナルド・ウォルシュや、ドリーン・バーチュー、アラン・コーエン、ディーパック・チョプラ博士、ウェイン・ダイアー博士、エックハルト・トール、エリザベス・キューブラー・ロス博士など多数のアメリカ・ニュー・エイジ関係のベストセラー作家から言及されている事もあって、未訳の頃から日本の精神世界でも言及されてきた。

日本でもベストセラーとなった『神との対話』(ニール・ドナルド・ウォルシュ著)の翻訳者、吉田利子が、前述の『神の使者』(ゲイリー・レナード著)を翻訳したこともあって『神の使者』がACIMの関係書籍の中ではよく売れている(2009年7月現在)。

『神の使者』読者の多くは『神との対話』読者でもあったので、『神の使者』で解説されたACIMの世界観と、『神との対話』のニューエイジ的世界観の相違点が争点となり、国内でACIMの名が限定的ながら広がった。

日本では、『神の使者』による解説に基づいてACIM論が展開されることが多い。

奇跡のコースの概要

構成

三部構成になっており、第一部がテキスト(Text)、第二部がワークブック(Workbook)、第三部が指導要綱(Manual For Teachers)となっている。

中心は第二部のワークブック(Workbook)であり、教本は導入部であり、指導要綱は補足といえる。

テキストの部(英語版で669ページ)は、ACIMの世界観・哲学を講義したもので、全31章ある。
ワークブックの部(英語版で488ページ)は、365日分のレッスンで構成されており、生徒は365日かけてレッスンを独学で履修する。

レッスンの内容は、心の視点を変える訓練であり、一日に10分から30分程度の訓練となる。

いわゆる肉体的修行や宗教的儀式、戒律、ボランティア的な実践は含まれない。

このためACIMの生徒はどの宗派に属していてもかまわないとされる。

指導要綱の部(英語版で92ページ)は、ワークブックの履修者が、新たな生徒をガイダンスする際のガイドブックとなっており、FAQと用語集の形式で書かれている。

教師の役割は、日常生活において#赦しを実践することである。

巻末には「心理療法:その目的、プロセスと実践」(Psycotherapy:Purpose, Process, and Practice)(英語版で24ページ)と「祈りの歌」(The Song Of Prayer)(英語版で22ページ)という小冊子が付属している。

世界観

第一部のテキストの部で学習する。

徹底した非二元論的な世界観である。

すなわち、神の#愛または神の世界(Heaven)こそが現実(Reality)であり、物理的世界はエゴが投影した幻影であって現実ではない。

この世界においては神の#愛の追体験だけが現実への接触であり、#奇跡であるとする。

後述の#用語一覧でもわかるとおり、ACIMの世界観は通常のそれからは想像がつかない内容になっており、テキストで世界観を把握しておかないと、実践にあたるワークブックの効用は懐疑的となる。

実践

第二部のワークブックを通して一年かけて履修する。

日々の生活において、エゴ(偽我)の思考様式(裁きの感情)を捨て、#聖霊(真我)の思考様式(#赦し)を常に選んでゆくことによって、#心の内にあるエゴを緩やかに消去し、神の現実(無条件の#愛)を生きながらにして追体験(#救済)することができるとしている。

聖霊の思考様式を選択するということは、#赦しの視点を常に選ぶことで、エゴが意識に投影した裁きの感情(恐れ・憎しみ)を#癒し、#知覚がもたらす幻影(狂気)に惑わされることなく実相(#愛)を見出すことである。

ACIMにおける実践(レッスンの履修)とは、行動の話ではなく、心の中で#赦しのプロセスを体験することで認識の変化、心の変化を起こすことである。

心こそが全ての原因であり、それ以外に原因を求める意志が世界という幻影を生み出していると考えるからである。

宗教的修行や人生修行、戒律の保持や瞑想行という概念を一切扱わない点こそ、ACIMの特徴といえる。

奇跡のコースの用語

キリスト教の用語が使用されるが、用語の意味は伝統的なそれや常識のそれとも異なる。

以下、比較思想に焦点を絞って用語を記述する。

説明の太字は、ここに収まりきれなかった、ACIMの他の用語を表す。

参考:ワプニック博士による用語集(英語)
参考:ワプニック博士によるACIMのFAQ72(英語)

赦し

ACIMの実践面の要。

ACIMの心理療法。

ACIMの心理学は、万人が一つの#心を共有しており、「自分と他人」はエゴ(意識下にある根本的な恐怖)が意識に投影した心理的幻影と捉えることから成り立っている。

ACIMでは赦しとは、罪を認めたうえで許してやることでも見逃してやることでもない。

#世界の不幸、悪心、理不尽は神の創ったものでなく、エゴに囚われた#心(無意識の恐怖)が意識のスクリーンに投影した幻影であり、現実(#愛)には存在しない狂気である。

現実でないものに裁きの感情を抱けば、幻影の狂気から回復できなくなるから赦すのである。

生徒はワークブックの履修を通じて、自分の外側に投影したエゴ(他人)を赦すことで、自分の内にあるエゴをおだやかに消去してゆく。

エゴの象徴としてやってきた人物や出来事は、このとき、自分のエゴの裏にある根本的な恐怖(神の愛から逃避する意志)を治癒する機会をもたらし(内なる平和)、かれはエゴからの解放者(savior)へ変容する。

そしてわれわれは互いに、本当の姿(キリストの顔)を垣間見ることになる(#聖なる関係)。

「自分と他人」「加害者と被害者」という構図は、エゴがでっち上げた幻影であり、実際は、恐怖に囚われたひとつの心が、無数の視点からこの世界(幻影)を体験しているだけだからである。

意識下の恐怖が投影した幻影(この#世界)を自分の現実なのだ、と信じ込んだ誤信を#心から取り除き、エゴという狂気を患う神の子の#心を、神の現実(天国)へ還す治療がACIMの#赦しであり、この回復プロセスを#奇跡と呼ぶ。

ACIMでは赦しも裁きも心の問題であり、肉体の行動に関しては焦点を置かない(道徳論との相違点)。

たとえば裁判官や弁護士、警官に対し、ACIMの実践は職業の放棄を要求しない。

犯罪は究極の現実においては存在しないことを認識し、加害者・被害者の関係に変容の機会が訪れること(#聖なる関係)を願いながら、平安な心で職務にあたることを勧めることになる(修復的司法と対比)。

注意点は、この世界における有罪がこの世界(や#霊界)で無罪になるのではなく、神の現実において無罪であるという点である。

常識における「彼は罪を犯したが私の情けによって減罪する」という許しはACIMでは殺す許し(Forgiveness-to-Destroy)と呼ぶ。

有罪であるのに許す偽善であり、許しを通じた"有罪認定"によって加害者は完全な神の子でなくなったからである。

同時に被害者も加害によって損なわれ、完全な神の子でなくなる。

かくて神の子は偽善の許しによって死ぬ。

対してACIMの赦しは3つのプロセスを経て成立する。

1 幻影の認識

ACIMの赦しのプロセスは、一切の判断を捨て、目の前の現実をありのままに観察することから始まる。

この時、われわれにとっての現実とは、エゴの存在を大前提とした心理的現実でしかなく、われわれが知覚しているこの世界は、エゴの投影した心理的な幻影に過ぎないことに気づき出す。

この世界は、自分を苦しめるためにでっち上げたエゴの幻影であり、「神のいない世界とは?」という空想を心理的に追体験しているだけである。

憎むべき他人はエゴの恐怖が意識に投影した幻影であり、彼のしたことは、映画の中の話であり、現在ただ今、神の現実(#愛)において起こってない。

エゴの創作したこの世界において有罪であっても、神の現実においては、純粋な「私」(Self)しかおらず、自分を含めた登場人物たちはどこにもいないので無罪。

2 幻影からの解放

無罪により、われわれが共有する#心を裁きの悪夢から解放するものとする。

エゴの見せる幻影に根拠を置く正義を捨て、神の現実に根拠を置く「赦し」を選択した心は、#聖霊(真我)の視界を得て世界を眺め出す。

キリストの視界(Christ's vision)は肉体を認識せず、人格の瑕疵を無視し、命の光のみを認識する。

この認識の劇的変化は内なる平和をもたらし(#奇跡)、意識下の恐怖が投影したわれわれの愛憎関係は、恐怖を#癒してゆく#聖なる関係へ切り替わる(#脚本の切替)。

3 現実への差し替え

全ての幻影は、神からの分離という、起こりもしなかった太古の空想によってできた恐怖が原因であり、この赦しのプロセスを通じて、#聖霊の#愛が我々の#心にあった恐怖を#癒した。

原因の消えたいま、悪夢はゆらぎ始め、我々の意識には#神の子の現実(#愛)を反映した世界(実相)が投影されはじめる(#奇跡)。

わたしたちの実相は#神の子であり、神の子はひとつであり、ひとりである。

以上のように、常識では受け入れがたいものがACIMの「赦し」であり、ACIMのテキストで世界観を把握せずに、ACIMのワークブックを履修することが不可能たる所以である。

ACIMは、キリスト教神学における赦しのような例外規定を設けない。

ACIMは裁きの行動ではなく、裁きの感情を取り扱う。

例外を設けて、裁きの感情を正当化することは妥協と考え、一切認めない。

ここにACIMの実践の最大の特徴がある。

過去の罪は取り返しがつかず、罰されることで償わなくてはならない、という裁きの感情は、エゴが意識に投影した#世界の幻影に基づいている。

ACIMにおいては、永遠のみが現実であり、過去は知覚の生みだした幻影に過ぎず、被害者と加害者の前提である「自分と他人」もまた、エゴが意識に投影した幻影である。

赦しは、罰すべき罪と見えた幻影を修正可能なただの間違いに変容させる。

この修正を通じて、#聖霊(真我)の愛は、裁き合いの人生という幻影を、万人が共有するひとつの#心からエゴの苦痛を取る#癒しの機会に変容させる。

キリストを信じることで原罪が贖われ、神の裁きを受けず赦されるので罪深き人を赦す、とするキリスト教的世界観とは相似的に対立している。

しかし、キリストを信じる、ということによって救済が訪れるという形式は伝統的キリスト教と共通する。

ただし、ACIMにおいてキリストを信じるとは、人類の本当の姿である神の子(イエス)を信じ、内なるキリストの声(赦しをすすめる心)を常に選ぼうと努力し、隣人のほんとうの姿(キリストの顔)を愛するということであり、似て非なる部分がある。

レッスン

ACIMにおける人生の目的は、#赦しのプロセスを通じて人間関係を癒す(#聖なる関係)ことで、万人が共有する#心の患う根源的な恐怖(意識下にある、神の愛から逃避し分裂を志向する意志。分裂的なこの#世界を意識に投影した。#罪)を治療し、内なる平和を回復すること(#奇跡)である。

ACIMにおいて人生とは、エゴ(偽我)が#知覚を通じて意識に投影した幻影に過ぎず、現実ではない。

だが、エゴの仕掛けたあらゆる場面で、裁きの感情ではなく#聖霊(真我)の思考様式(#赦し)を選択し直し、神の現実(無条件の#愛。天国)を思い出す教材(Teaching device)として人生(人間関係)を活用するとき、人生は重要な目的を持つとしている。

「赦しのレッスン」という語法で用いる。

エゴが人生を意識に投影した本当の目的は、#心を幻影へ閉じ込めることで、根源的な恐怖(#罪)に端を発する自他への攻撃的感情(苦痛/ #罰)を患わせることである。

#心は、#世界という幻影のなかで消え去る喜びを餌に、苦しむことの意味を追求している。

だが幻影それ自体は価値中立なので、人生という幻影に与えた目的を差し替えてしまえば人生の本質はかわる。

#心は幻影の他、#知覚できない状態にあり、神の現実とは何だったのか想像もつかない状態に陥っている。

幻影の他に何も#知覚できなくなった心に、『神の現実(#愛)を反映した幻影』(実相 Real World)を、体験させること(#奇跡)で、神の現実を思い出させることが、#聖霊(真我 大文字で始まるSelf)が人生に与えた目的である。

この#奇跡をもたらすものが、日々の#赦しのレッスンとなる。

赦しは、この#世界を投影しているエゴを、#心から消去して、われわれの意識に投影されている幻影を差し替えていくからである。(仏教の唯識、ニューエイジのポジティブシンキング、人生=修行のスピリチュアリズムと相似的に対立する箇所)

人生は幻影であり、幻影自体は価値中立とする認識は虚無主義に見えるが、ACIMではこれを、神の現実へ目を覚ます、重要な初めのステップとしている。

幻影への盲信を捨てなければ、#心は幻影を幻影と気づかないからである。

この発想は信仰によって原罪を克服し天国へ至るキリスト教神学よりも、空や無を観じることで涅槃や解脱へと意識を向ける仏教やヴェーダーンタ学派などの東洋思想に近い。

また、イエスの導きのもとにこの世界で神の知識(真・善・愛)に到達することで、幻影の#世界から神の世界へ救済されるとする、新プラトン主義キリスト教神学の一派にも近い。

なお、人生への絶望やシニシズムは、エゴのしかけた人生の目的に基づいたもので、#赦しを通じて#癒してゆくべき#心である。(現代思想との相違点)

世界

ACIMでは、この世界は、エゴが意識に投影した幻影であり、神のみが現実である(不二一元論)。

トマス福音書やマグダラのマリアによる福音書、インド哲学ヴェーダーンタ学派と共通する箇所。

世界は神が創造したとするユダヤ-キリスト教・ニューエイジ(あるいは正反対の唯物論)による一元論と対立しており、グノーシス主義やデカルトなどの二元論的世界観とも対立する。

ACIMでは次のようなメタファーで世界という幻影がうまれた経緯を説明する。

「自分が自分の神となるために、世界から神(無条件の#愛)を排除したらどうなるか?」 神の子の#心に一瞬浮かんだ、神の#愛無き世界のシミュレーションは悪夢そのものだったが、神はこれを現実とせず、瞬時に消去した。

だが「神のいない世界」(無条件の#愛がフェイクとなり、恐怖が存在する世界)という仮定の結果が、余りにもショッキングな内容だったために、神の子の#心は、恐怖の余り#罪の意識にとらわれ、悪夢にうなされて現実に還ってこれない。

悪夢の中で神の子の#心は、無数の人格に分離したエゴとなっており、それが肉体を持つ人類である。

この世界は太古に終わった空想の思い出にすぎず、我々は時の終わりから、映画を見るがごとく過去の空想を追体験している。

#肉体は、既に終わった世界と、神から分離した仮想人格を現実と思い込むためのデバイスである。

時間

ACIMにおいて、時間(人生)は脳を通じて意識が創作している幻であり、過去・未来は現実には存在しない。

神の永遠の今が、現実である(永遠の生命)。

この時間の概念が、最もユニークな箇所である。

神の永遠の今を破壊するために、#エゴは過去と未来の幻影をつくり、今を覆い隠した。

しかし幻影は現実になりえず、すでにこの時空間は終了し、消去されている(#救済)。

過去・現在・未来は同時に起こり、そして同時に終了した。

時の外にある心が、この世界という過去の空想の思い出(#脚本)に浸ったとき、脳を通じて過去・現在・未来というリニアな流れとして、映画のように時間という幻影は疑似体験される。

しかし、この世界で体験している"今"は、今、太古の空想を追体験しているだけであり、ふりむけば背後に永遠の今が待っていることになる。

脳を通じて出来た個別の人格が世界を#知覚するとき、#知覚自体が持つ致命的な欠陥によって起こる失敗(恐れ、憎むこと)を我々は避けることができない。

過去は悔恨(#罪)となり、未来は過去の体験から来る恐怖(罰)で覆われ、永遠に通じる今の価値は悔恨と恐怖の幻影につつまれる。

エゴが時間を創作した理由である。

だが、#赦しを通じて隣人のほんとうの姿(#キリストの顔)を愛することで#知覚を修正して、究極の現実(天国)で味わった#愛の記憶をこの幻影世界の中で追体験するとき(#幸福な夢)、われわれは過去と未来に押しつぶされた時間の幻影から、悔恨も恐怖もない、神の永遠の今という現実へ目覚める過程にある。

つまり、赦しによって時間(人生)の目的を逆転させ、時間の生み出した悪夢を消去して、神の永遠の生命に還ることこそがACIMの実践目標である。(※最後の審判→#裁きを参照)

神の現実(無条件の#愛)を恐れて、逃避しようとする、無意識下に隠された恐怖の感情。

この#世界という幻影を意識に投影した動機であり、ACIMにおける不幸の根本原因。

楽園追放を原罪とするユダヤ・キリスト教的世界観とも、一般的な道徳的意味とも異なる。

ACIMの世界観の要となる用語。

われわれのエゴの正体は、時空を超えた#心が、神の#愛無き世界をシミュレーションしたときに得た恐怖の感情である。

エゴの投影である人類は、すべて「無条件の#愛を壊した自分は、#愛によって裁かれるに違いない」という罪の意識を無意識に持っており、この無意識の恐怖が、人類の意識に投影されて、この#世界という恐怖で満ちた幻影が成立した、としている。

なおACIMでは、恐怖と条件付きの愛は表裏一体である(#聖なる関係参照)。

無意識下に押し込められたこの恐怖は、日常生活では自分自身や他人・社会を恐れ、防御し、裁き、攻撃する原動力として働いている。

これがこの#世界の悲惨の根本原因である。

なぜニューエイジがいうように、ポジティブに考え、ポジティブ思考を無意識に落としても結局、不幸になるのか。

なぜ政治経済科学のアプローチは不幸をなくせないのか。

原因は、この根深い罪の意識がこの世界を投影していることを解決していないからである。

しかし、この世界の悪夢が神の現実には存在しないものならば、神が罰するはずもなく、恐れる必要もない。

「無意識下に罪を押し込んだ結果、外に現れた他人や社会という幻影」を「赦していく」という作業は、無意識下に押し込められた原因不明の恐怖(罪)を癒していく作業であり、この#癒しをもたらすものが#奇跡とされ、それゆえ「奇跡講座」というタイトルとなっている。

癒しは、世界を意識に投影したプロジェクター(罪の意識)を消去するからである。

ACIMが詳説する無意識が生む苦痛発生のメカニズムは、セットフォード、シャックマンが専門としていたフロイト派心理学、特にアンナ・フロイトの防衛機制における投影と、その治療方法としてのメラニー・クラインの対象関係論を彷彿させるが、治療のアプローチが#赦しである点が異なる。

ACIMでは、罪・罰・裁きがフロイト派心理学のUnholy Trinity(エゴ、スーパー・エゴ、イド)に照応する概念となっている。

罪・罰・裁きの関係を整理すると以下のようになる。

罪(分離):神から逃避(分離)したと誤信する#心(エゴ)が現実を忘れ、眠りにつく→夢の中で心が、正しい心(#聖霊。現実の思い出)・間違った心(エゴ。現実逃避する心)に分裂→「神と自分」「自分と自分以外」「主観(意識)と客観(幻影)」に分裂→神の完全な#愛を破壊したことへの後ろめたさが発生。

罰(後ろめたさ):神に対する後ろめたさが、夢の中で「自分対神」「自分対自分以外」の分裂に「攻撃と防衛」の関係を投影→恐怖が発生

恐怖(裁きの感情):恐怖が「加害者対被害者」(特別な関係)の幻影(#世界)を意識に投影→この幻影が意識に投影される過程で、#知覚が夢の中で発生→#知覚を通じて、ひとつだった#心(#ワンネス)に分裂した無数の人格(#肉体)が発生→「自分対他人」(特別な関係)のリアリティが幻影に対する「#裁き」を正当化→#心から統一性(#ワンネス)が失われ、エゴという精神疾患(分離・分裂の幻影が誘発した恐怖を現実と誤信する心)が常態化
ACIMは、無意識下の罪の意識が肉体を持つ根本原因であるとする。

無意識という点において、仏教の無明と共通点があるが、ACIMは無明に隠された意志を取り扱う。

メソッドも仏教が、全ての原因に無明を見出して、執着から離れていく(八正道)のに対し、ACIMのメソッドは#赦しである。

世界を幻影と見ていく点は仏教と共通するが、「根源的なうしろめたさを無意識下に押しこんだかわりに、表面意識へ裁き合いの世界(幻影)が投影された」とする独自の世界観の結論として、赦しというメソッドがACIMの結論となるのである。

ACIMにおける原罪の概念といえるが、罪は幻影に過ぎないとする点が、ユダヤ・キリスト教神学と異なる。

神を現実と置くことで、その対比として世界が幻影となる点も仏教との相違点であり、神に絶対価値を置く点から思想が発展する点はキリスト教と共通する。

マグダラのマリアによる福音書にある説明(「(世界の)罪などというものは存在しない」「…これ(罪があると信じること)が病にかかり、死を味わう理由である。あなた方を騙すものを愛するからだ」)がACIMの罪の概念に近い。

裁き

#罪の存在するこの世界は、エゴが意識に投影した幻影であり、現実(#愛)ではない。

よってACIMでは、たったひとつの裁きの他、いかなる裁きも否定する。

自分自身の#心の中で、エゴの思考(裁きの感情)を捨て、#聖霊の思考(#赦し)を常に選ぶという裁きのみが、#心を#罪の悪影響から解放するとしている。

悪心、理不尽など、世界の一切の#罪はエゴが意識に投影した幻影に過ぎず、現実ではない罪を神が裁く必要はない。

したがって、いかなる裁きの感情も根拠がない。

裁きの対象は、エゴが意識に投影した幻影であり、神の現実には存在しないからである。

ここに#赦しの根拠があるとする。

神の裁きを主軸とするユダヤ-キリスト教神学と対立する。

なお、ACIMは#心のみを講義テーマとする。

例えば、裁判官や警察官は職から離れろという話でも、教師や親は子を叱ってはならないという話でもない。

心の中で#赦しを選択した後、どう行動するかについてACIMは一切ふれない。

ACIMが問題とし、否定するのは裁く感情のみである。(#赦しを参照)

ACIMにおいて#救済とは、我々の物理世界・肉体・人格という、存在すらしなかった幻影から目を覚まし、神との分離は決して起こっていなかったという現実(天国)に戻ることである。

#赦しの実践によってわれわれ人類の#心から全てのエゴ(誤信) が消去されたとき、この宇宙は消滅する(#啓示を参照)。

ハルマゲドンは起こらず、宇宙は幸福に満たされた後(#幸福な夢)、テレビを消すように消滅し、神の現実(無条件の#愛)のみが残る。

宇宙は、#心にあったエゴが意識に投影した幻影だからである。

これがACIMにおける最後の審判である。

肉体

ACIMでは、肉体と#知覚は、エゴが意識に投影した幻影であり、現実には存在しない。

幻影であり、そもそも「生きていない」ので「死にもしない」。

肉体は神の創造物ではない。

永遠でないもの、うつりかわるもの一切は神の創造物ではないからである。

我々の肉体は、すでに終わってしまった#時間という#脚本を現実のように思い込む(仮想現実)ために、エゴが組み上げたプログラムである。

人類は神が創造したとするユダヤ・キリスト教的世界観と対立する。

肉体の持つ目的は、エゴと#聖霊とでは異なる。

 

(a) エゴにとって、肉体とは、究極の現実には存在しない無数に分離した人格を経験するための大切なツールであり、ポジティブであると同時にネガティブな価値を持つ。

 

神と、神の子はひとつであり、神の子は一体でありひとつである。

よって神の現実において、無数に分離した人格は存在していない。

しかし、意識に投影された肉体という幻影を現実と信じることでエゴは、神から分離した人格を現実と思い込むことができる。

この#世界は、二元性によって成立した地獄の幻影である。

この世界においては善きものと悪しきものは常に対となっており、いかなる善きものも、悪しきものから逃れられない。

全ての美しい感情、全てのよき面影、全ての幸福は、肉体が固有に持つもろさ・#知覚の欠陥によって時間と共に必ず破壊される運命にある。

この世界において、神や天国を想起させるあらゆる善きものが、時間と共に壊されていくのを神の子に経験させることで、エゴは神を攻撃しているつもりになっている。

しかしこの世界は神の創造したものではなくエゴが創作したものなので、実際のところは神への攻撃になっておらず、エゴ自身への攻撃になっている。

エゴはこの矛盾を隠すため、自らを無数の人格に分割して、互いに攻撃しあうことで、この攻撃が現実であると思い込む。

かくてエゴは、恐怖を体験できるようになった。

これがエゴが肉体に与えた、隠された本当の目的としている。

エゴの目的に支配された#心は、肉体の幻影に束縛され不自由である。

(b) 聖霊にとって、肉体とは、分離した人々をひとつに導くコミュニケーションのツールであり、それ自体には価値のない中立的なものである。

エゴの創り上げたこの世界の枠組みの中では、神の子のよきこころ、よきものは肉体の持つ根本的限界によって不完全なものであり、常に悪しきものによる破損に脅かされ、時間と共にやがて破壊されるはかなきものに見えている。

しかしこの「神の子のよきこころ」の破壊は、前提として、(1)肉体を通じて現実に見えている神から分離した人格 (2)肉体を通じて現実に見えている時空間 というふたつの誤信 があってはじめて現実のように見えている幻影である。

聖霊の目的を選択した#心は、肉体の監獄から本質的に自由となる。

聖霊は、われわれの心からこの誤信を取り除くことで、エゴが肉体に与えた目的(裁きあうこと)を消去して、肉体を、価値中立の、ただの幻影に差し戻す。

これによって聖霊は、いかなる相手でも赦すことを可能にする。

怒るべき他人も損なわれた自分も、肉体という幻影にすぎず、神の現実には存在しないからである。

かくて聖霊は、神の子たちのはかないよき心を、分かたれること無き、ひとつのこころに還し、美しくももろく見えたものを、不滅のものに治していく。

#神の子のこころ(キリストのこころ)とその#創造物は、現実には一度たりとも損なわれたことがない(#救済)。

その現実を思い出していく過程が、ACIMの学習者が聖霊と共に修養していく#赦しの#レッスンとされている。

十字架

「キリストは人類の罪をあがなうために十字架にかかった」というパウロ的神学を否定している。

肉体は幻影であり、そもそも「生きていない」。

対して、生命は神の創造した現実(#愛)であり、永遠である。

生命(#愛)はひとつであり、神と一体であり、明滅する無数の生命と見えるものは永遠の生命ではなく、肉体の幻影である。

肉体や罪、裁きは幻影に過ぎず、永遠の生命(#愛)に傷一つつけることもできない。

イエス・キリストは生命(#愛)の不滅を実演するために十字架から復活した、とする。

ACIMは十字架ではなく、明けの明星(復活のシンボル)をキリストのシンボルと見なす。

また、十字架は自己犠牲を象徴してきたが、この世界を現実(神の創造)と信じる限り、自己犠牲は苦痛を現実にしてしまい、#心は苦痛の幻影に損なわれたままになると、ACIMは指摘する。

未来は存在せず、今のみが存在するからである(#時間)。

かわりに、神の#愛のみを現実として、この理不尽な世界を幻影と見極めることで、この世界にあってこの世界にいない生き方ができると、勧めている。

トマス福音書と対比される箇所。

神の子

キリスト、#霊と同義。

ACIMでは、神の創造したひとり子(キリスト)とは、人類の本当の姿であり、個別化したエゴもまた、ひとつのエゴの複雑な表現に過ぎない。

歴史的存在としてのイエス・キリストとは、個性に分離した人類の幻影から目覚め、もとの神の子へ復活した存在を指す。

神はひとり子のイエスを人類に遣わしたとするカトリック・プロテスタント・正教会とは相似的に対立する。

ヴェーダーンタ学派と対比される箇所。#霊・#キリスト教との比較を参照。

聖霊

イエス・キリスト、真我(大文字で始まるSelf)と同義。

ユダヤ・キリスト教神学とは異なる独特の解釈が展開される。

ACIMの思想面の要。

(a) ACIMでは聖霊とは、幻影に囚われた心を目覚めさせようとする、神の現実へいざなう声である。

神の子(人類の本当の姿)の#心は、この世界という悪夢を見ており、悪夢の中で無数に分離した人格になりきっている。

悪夢にうなされる息子(#心)をやさしく目覚めさせるため、神は聖霊を全ての人間に遣わせた。

日々の生活において、エゴの思考(裁きの感情)を捨て、聖霊の思考(#赦しの心)を常に選んでゆくことで、#エゴの創った人生の#脚本は緩やかに消去され(#奇跡)、神の現実(無条件の#愛)を生きながらにして垣間見るようになる(#啓示)。

聖霊の思考をすべてに当てはめられるようになったとき(Universal Application)、神の直接の手により、現実の世界(天国)へ救い出される(#救済)とする。

聖霊の#愛とエゴの恐怖、という構図は、ACIMの生徒の日常において最も使用頻度の高い概念となる。

エゴを消去し、究極の現実に還った全ての教師は聖霊のもとに一体であり、全ての人類が悪夢から目覚めるよう、働きかけている。

昇天したイエス・キリストは聖霊であり、神の言葉であり、常にひとりひとりのそばにある。

神の子はひとつであり、#心に浮かんだ無数の人格は幻影だからである。

すなわち、聖霊とは、神の答えであり、悪夢にうなされるわれわれに対する神の働きかけである。

通常いわれる「神の声」に対応するACIMの概念はこの「聖霊の声」である。

ACIMにおいては、聖霊の存在が神の言葉(Words of God)であり、聖霊の声は神へいざなう声(Voice for God)である。

神が関知していないのは、神の子の#心がシミュレートした神無き#世界の内容のことであり、神は、悪夢にうなされている神の子を腕にいだいて耳元から聖霊を吹き込み、夢に現れた聖霊の声が、#心を悪夢からおだやかに目覚めさせようとしている(#幸福な夢)、と喩えられる。

(b) ACIMでは聖霊とは、幻影に囚われた心に残る現実の記憶、神と常に共にあった記憶である。

上記の「神が神の子たちを救うため聖霊を遣わせた」という考えは、悪夢の中にいるわれわれが理解できる描写であるが、「神から全能を受け継いだ神の子が、何かをしてもらって助けてもらうような不完全なものではない」という現実を知る、神の子の視点からすれば「聖霊とは、#心が持つ天国の記憶、神と常に共にあった記憶(Memory of God)であり、聖霊と共に生きることは、#心が天国の記憶を呼び覚し、悪夢から天国の現実へ目を覚ましていく姿である」と描写し直すことができる。

(c) ACIMでは聖霊とは、幻影を誤信したエゴに対して、神の現実を語る正しい心のことである。

「神から分離して自分が自分の神になって生きるというのはどういうことだろう?」という空想が神の子の#心に浮かんだ瞬間、恐怖がうまれ、#心は空想世界の中で無数の人格に分裂した。

しかし神の子は神の子であることをやめることは出来ない。

神の子は神の創造であり、創造者の神に成りかわって自らを神の子以外に創造しなおすことはできないからである。

神の子は神と一体である。

そのため、#心は、神と分離した間違った心だけになることができず、神と一体の正しい#心が潜在する形となった。

表面化した間違った心に#エゴが住んでいるのと対比して、潜在化した正しい心には聖霊が住まい、間違ったこころに囚われたわれわれに働きかけることになった。

(d) ACIMでは聖霊とは、幻影と現実を橋渡し(bridge)することで、幻影で自分を見失った心を神の現実へ導く存在である。

神は「神の子は今も天国におり、愛する全き子である」という現実を関知し、聖霊はわれわれ人間を幻影から現実へ誘う橋渡しを領分とする。

「神=現実を認知し幻影を認知しない 聖霊=現実と幻影を橋渡し 人間=幻影を認知し現実を認知しない」とまとめられる。

この幻影世界の他なにも知覚できず、神の国の現実を忘れてしまったわれわれの意識は、神の現実を直接、#知覚することができない事態に陥っている。

聖霊は、この本質的な問題に対する神の答えであり、聖霊は、この幻影世界のあらゆる事象を、神の現実を思い出すツールとして再解釈することができる。

裁きの感情を引き出すために、エゴが引き起こす出来事を、聖霊の視点を借りて見直すことで、われわれの心は、怒り(恐怖)の対象が幻であることを喝破できるようになり、赦すことが可能になる。

この#赦しを通じて、#心から幻影の影響を消去し、聖霊の#癒しを受ける(#奇跡)毎日を送ることで、ACIM学習者はやがて神の現実を垣間見る(#啓示)に至るとする。

ACIMの内容は、聖霊ひとつとっても多彩である。

ACIMは解釈の混乱を想定しており、「世界は現実ではなくシンボルに過ぎず、言葉はシンボルのシンボルであるため、言葉を持って神の現実を示すことはできない。

ACIMは神の現実そのものではなく、神の現実へ還るためのツールである」「ユニヴァーサルな解釈は存在しえない。

経験のみがユニヴァーサルであり、ACIMは神学ではなく経験をテーマとする」と断りを入れている。

ワンネス

神と#神の子と#聖霊が一体であり、本質的に同じであること。

天国や#救済ともほぼ同義。

onenessという単語自体はすくないが、「一体である(…are one.など)」という語法が頻出する。

三位一体説に近いが、(a)神はこの世界を創造しておらず世界は存在すらしていない点 (b)神の子は、歴史上のイエス個人を指さず、人類の本質である点 (c)人類の個別の人格はエゴの幻影であり存在しない点 (d)神の現実においてのみこの一体は実現されている点 から、キリスト教やニューエイジ、インド哲学のワンネスとは異なる概念となっている。

特に、(1)無数の人格はひとつのエゴの複数表現にすぎないこと (2)神の子はひとりであること の二点を結び合わせたワンネスがACIMの思想的特徴になっている。

最も近いのはインド哲学のヴェーダーンタ学派とその流れをくむ大乗仏教の一派、およびトマス福音書のそれである。

ACIMでは、エゴの考えを選ばず#聖霊の視界を常に選択し、#赦しを実践してゆくことで、この世にいながらワンネスを一時的に体験できる(#啓示)とする。

人間の本質。

神、#神の子(キリスト)、#聖霊と一体の部分。

霊は神と一体ゆえ、完全無欠である。

我々の不完全な人格(魂)は霊ではなく、エゴにとらわれた#心であり、神の創造物ではない。

この点、キリスト教神学と対立する。

人格的な霊を認めない点は、仏教の無我に近いが、霊を本質として認める点が仏教と異なり、最も近いのはインド哲学のヴェーダーンタ学派とその流れをくむ大乗仏教の一派、およびトマス福音書のそれである。

死後、存在するとされる魂は、エゴにとらわれた#心の別形態であり、霊ではない。

よってACIMでは死後世界をほとんど扱わない。

霊格という考えはあつかわない。

無数の魂に対して、霊はひとつであり、完全無欠ゆえ、「魂のレベル」という考えや人格の成長は、霊そのものの姿ではなく、いわば分裂した#心(魂)が病状回復するいち過程だからである。

人格の成長は、一時的なものにすぎないが、聖霊は人間のこうした性質を導きに利用できる。

以上、スピリチュアリズムと考えを異にしている。

霊格の否定により、ほとんどのカルトを無言で否定したといえる。

霊は神の#愛と一体ゆえ、存在自体が天国である。

ACIMにおいて、天国はどこか別の世界にあるものではなく、エゴから離れた、我々の本質が天国である。

よって、#ニューエイジのように何かを引き寄せて手に入れる必要はない。

存在自体が天国であることで、すでに全てを持っているからである。

世界という幻影のなかで、別の幻影を追い求める心は、神からの分離が起こした欠乏を追体験しているにすぎず、天国は近づかない。

これはACIMにおける祈りの奥義となっている。

また、宗教的戒律による禁欲も、ニューエイジ的な欲望の肯定も、幻影に過ぎない肉体の行動であって一時的なものにすぎず、どちらも霊と直接、関わりはない。

よってACIMでは#心のみに焦点をあてる。

心は霊とかかわりがあるからである。

ACIMでは#聖霊の導きのもと#赦しを実践していくことを通じて、エゴにとらわれた心が、霊としての本質を思い出してゆく。

霊は無数にあるのではなく、ひとつだからである。

ACIMではHoly Spiritに近い形でSpiritという単語を単数形で使い、Soulsという単語を避けることでこの世界観の差異を表現している。

脚本

人生の脚本のこと。

#神の子の#心が、無条件の#愛を破壊する悪夢(神からの分離)をみたとき、#心は正しい心と間違った心に分裂し、間違った心はエゴとなった。

エゴはたったひとつの間違い(神から分離)を、あらゆる視点からあらゆる形で追体験しようと、無数の個性と無数の人生の脚本を一瞬にして書き上げ、そこに閉じこもる道を選んだ。

しかし悪夢が神の子の#心に浮かんだと同時に、神と一体の正しい心、すなわち聖霊は一瞬にして、たったひとつの間違いを修正した。

終わり無き裁き合いに彩られた脚本は、全て#赦しのハッピーエンドをむかえる脚本(#幸福な夢)に書き換えられて、悪夢は消滅した(#救済)。

過去・現在(実際は過去の追憶)・未来(実際は忘れた過去)のすべての人のすべての人生は、太古の一瞬において、エゴが創作済みであり、各人の肉体はすでに終了した物語を現実と思い込むために、脚本をなぞっているだけである。

意識は、エゴの思考様式(裁きの感情)を捨て、聖霊の愛(#赦し)を常に選択し続けることで、エゴの脚本から聖霊の脚本へ移行して、幻影から神の現実へおだやかに目を覚ましてゆく。

人生の悪夢は癒され、人生は愛と赦しの#幸福な夢に変わり、やがて神の究極の現実(無条件の#愛)へ帰還する。

ACIMでは、これを神の#救済計画とする。

裁くことなくありのまま眺めることでエゴは現実性を失い、エゴの脚本は力を失う。

過去への怒りを赦し、未来の恐怖を癒していき、今、この瞬間に生きること。

これによって、過去・未来という#時間の幻影、すなわち人生という幻影は消えだし、エゴのしかけた運命は消滅していく。

かくてACIMの生徒は、聖霊の脚本へ移動する自由意志を得る。

だが究極の世界では、全ての人が聖霊の脚本を選び取ることは運命づけられている。

神の世界ではすでにこの世界は消滅しており、起こりもしなかった幻影だからである。

なお、ACIMの時間論はホログラフィック(過去・現在・未来は同時に起こり、同時に変化する)であり、ニュートン力学の直線的時間論(過去・現在・未来は一直線である)を幻影として退けている。

カオスの法則に基づくエゴの脚本もたった一本ではなく、エゴにとらわれた意志選択によって無数のバリエーションに変化する、かにみえるが目的は変わらない。

依然、エゴの脚本に収まっており、自己啓発の努力論やニューエイジの引き寄せ論も、この世界で幻影を追い求める限り、エゴの脚本のバリエーションになる。

エゴの脚本は、消え去る喜びを餌にして、苦しむことの意味を追い求めさせ、永遠に幻影へ閉じ込めることに、目的があるからである。

それゆえ、実際の自由意志は、いつ聖霊の脚本を選ぶか(いつ裁きではなく、赦しを選ぶか)という点しかない。

どの時点で、赦せない気持ちに戻るかで、聖霊の脚本も無数に変化するが、すべての人間はやがて完全なる赦しを選ぶので、聖霊の脚本には終わりがある(#救済)。

幻影は苦痛だからである。

『脚本』の概念は運命からの脱却を論じており、天国行と地獄行の人間を神が運命づけるカルヴァン的な運命論とも、カルマの輪からは決して逃れられないヒンドゥー教的因果論とも異なっている。

また、共著者の専門であったフロイト派心理学を彷彿させる"エゴの隷属"からなる運命論と、#赦しによる解放のアプローチは、現代思想の自由論や心理学にも一石を投じる立場となっている。

輪廻

ACIMにおいて輪廻は、この#世界と同じく意識に投影された幻影であり、神の現実においては存在しないものとされる。

輪廻の前提となる#時間と#肉体、そして個別の人格はエゴが意識に投影した幻影に過ぎないからである。

ACIMの教師は、輪廻を信じる生徒も信じない生徒も平等にガイダンスすることが要求される。

ACIMによれば、輪廻という信仰のメリットは、(1)肉体の幻影性 (2)生命の永遠 の二点を示唆していることである。

輪廻という信仰のデメリットは、(1)エゴの産物にすぎない人格が永遠に続く究極の真実と誤解する点 (2)未来や過去に意識が向いてしまい今から目をそらしてしまう点である。
神の国(天国)の永遠こそが究極の現実だが、永遠という神の国の#知識は、時間の枠組みのなかでは今、この瞬間として#知覚される。

つまり、輪廻や霊界についての信仰が、生命の永遠と肉体の幻影を示唆するなら、正しい#知覚となり、神の#知識への架け橋となるが、今、この瞬間から目をそらす方に向かうならば誤った#知覚となる。

輪廻についてのこの中立的な姿勢は、輪廻を否定するキリスト教や輪廻を肯定するヒンドゥー教・ユダヤ教などより、輪廻の肯定と否定を同時に行う原始仏教に近い。

霊界について言及はほとんどなく、霊界は地上の人生と同じく幻影であり究極の現実でないとされる。

ACIMがスピリチュアリズムのように霊界や輪廻についてほとんど語らない理由である。

霊界の天国と、ACIMのいう天国の概念は別のものを指す。

この点もキリスト教よりも、天界と仏界を分ける仏教を彷彿させる。

ACIMのレッスンの目的は、「時間の節約(saving time)」である。

赦しのレッスンを実践してゆくことは、数千年単位の時間の節約になるとしている。

赦しは、数千年単位で展開する加害者・被害者の役割の交代連鎖を一瞬で癒し、#聖なる関係にすることができる(エゴの#脚本から#聖霊の脚本への切り替え)。

これにより、輪廻から数千年はやく卒業できる(#救済)ようになるからである。

赦しの#奇跡のひとつである。

ACIMでは、心には2つのレベルがあり、共に脳の活動を指さない。

レベル1 神の現実におけるこころ (Mind)

神と一体となった#霊が天国で#創造活動に使用する触媒。

こころは、神そして神の子と一体で、永遠の今の中で活動している。

レベル2 われわれが世界で意識している心 (mind)

神から分離するという妄想(エゴ)を誤信した心。

神からの分離を着想した瞬間、こころは意識(主観)と、意識下のエゴが投影した幻影(客観=世界)とに分裂し(二元性の誕生)、ここに#知覚が生まれ、意識は#知覚を通じて無数の人格に分裂(多様性の誕生)した。

#知覚を通じて、意識は幻影の受信者となり、心は、自ら創作した世界という幻影に隷属することになった(原因と結果の逆転)。

そして、神と一体のこころは (1) 正しい心となって無意識に潜んで聖霊となり、エゴの妄想を信じた心は (2) 間違った心として無意識下から、(3) 選択する心に働きかけるようになった。

エゴの幻影したこの世界のなかで、心は3つに分裂している。

われわれが脳作用として認識している人格(魂)は、(2) 間違った心を (3) 選択した心が、意識に投影した自己イメージである。

われわれは自由意志をもって「思考」していると思っているが、実際は、エゴの思考様式を心が選択した結果、自動的に「思考」の流れが意識のスクリーンに投影されているに過ぎない。

この心は#知覚を通じて得る、世界という幻影に支配されているが、いついかなる幻影が立ち現れても、(3) 選択する心が (1) 正しい心(#聖霊)を選び直す(#赦し)ようになったとき、正しい心と間違った心の分裂は消滅し、神と一体となったこころ(#霊)のみが残って#救済される。

なお、正しい心と間違った心の分裂は、神の現実には起こっていないので、共に幻であったと救済の段階で気づくとされる。

ACIM独自の天地創造神話と言える。

フロイト派心理学の自我・超自我・エスと対比される箇所。

知覚

五感や意識(魂)の表象作用。

知覚は、エゴが意識に幻影を投影する過程で生じた現象に過ぎない。

我々の心は、この知覚を通して、エゴが投影した「世界という幻影」にコントロールされている。

知覚は心を、(1)光学的幻影の他、認識できない状態 (2)その幻影を頭脳で解釈するほか、外界の真実を類推できない状態、にさせている。

これによって、間違った心を選択した#心は、神の現実には存在しない二元性の地獄的空想を、追体験できるようになった。

知覚に支配された意識は、幻影の解釈しかできないので、#聖霊は#赦しを通じて、神の現実を反映した再解釈を、意識に与え(修正)、間違った#心をエゴから解放してゆく。

聖霊とひとつとなった心は、正しい解釈の証明として、#奇跡を意識に投影し、選択する心はこれを知覚する(正しい知覚)。

哲学の現象学と対比される箇所。

奇跡

ACIM(『奇跡講座』)の中心テーマ。

#心がエゴ(偽我)の思考様式(裁きの感情)を捨て、#聖霊(真我)の思考様式(#赦し)を選び直すことで起こる#知覚の劇的変化。

赦しを通じて、#愛の障碍が意識から取り払われた状態がこの奇跡を起こす。

奇跡は、心が世界の原因となる権利を、劇的に取り戻したときに起こるとされる。

エゴ(神から分離したという誤信)にとらわれた心は、世界の変化によって幸不幸を決定される、世界の奴隷となっている。

我々の意識は、間違った心(エゴ)が投影した世界(幻)を受信して#知覚を自動的にでっちあげて、これを解釈するほかない状態に置かれており、いわば意識は、自らの#心が創作した世界(幻)の奴隷になっているからである。

心がエゴ(裁きの感情、恐怖)から離れ、聖霊の思考(#赦し)を選んだとき、エゴの創作した世界の法則は効力を失い、神の法則を反映した世界(#幸福な夢)が意識に投影される。

このとき、人はキリストの視界(Christ's Vision)ともいうべきものを体験し、同じ世界のはずなのに全くかわってしまったかのような劇的変化を感じ、深い#癒しと感動を得る。

このプロセスをACIMでは奇跡と呼ぶ。

それゆえ、ACIMは、心に奇跡を起こすことに、講義を限定する。

#心が世界の幻を意識に投影して、#知覚をでっちあげているのならば、心が原因で、世界が結果である。

よって結果で結果をコントロールするのは、幻影で幻影をあやつるマジックであるとして退けている。

通常言われる超能力や、人をあやつる交渉術、金で人生を変えようとする様や、信念(別の幻のイメージング)で結果(望む幻)を引き寄せようとする自己実現、万人の持つエゴが社会悪を起こしていることを無視した社会改革は、すべてマジックであり、ACIMの奇跡とは対極にある。

ニューソートの成功哲学や、ニューエイジの引き寄せの法則と対立する箇所。

心に奇跡が起きたとき、当然の結果として、常識的意味合の奇跡は起こり得る。

奇跡の"結果"である#癒しは、奇跡を行うもの、受けるもの双方にとって最も自然な形を取る。
奇跡の前提として、世界はたった一つの間違い(神からの分離)から生じ、たったひとつの修正(ひとつになる)で消去された、という世界観がある。

よって、奇跡に難易度の差はない。

神の#愛は常に最大限だからである。

ニューソートやニューエイジ、ユニテリアンと相似的に対立する箇所。

奇跡は、「神からの分離は一度たりとも起こっていない」という原理に基づき、与える者・受ける者の心がひとつとなったときに起こる。

#赦しの#レッスンを日々行い、自他のエゴを消去することで、奇跡を起こす心(Miracle-Mindedness)に至るとされる。

心がひとつとなるからである(#ワンネス)。

トマス福音書と対比される箇所。

癒し

#心(意識・無意識)から苦しみ(病)の原因が消えること。

ACIMでは、#赦しがもたらした心の#奇跡は、病にとどまらず、すべてを癒す。

世界のあらゆる苦悩は、たった一つの間違いから来ているからであり、たったひとつの修正は全てを解決するからである。

神から分離したとき抱いた根深い#罪の意識は、無意識下から働いて、病をはじめとするあらゆる形を取って、苦悩の映画フィルムを意識に投影しており、この投影が#肉体の#知覚を作り上げている。

だが、#心がひとつとなれば争いの映画はなく、孤独のストーリーもない。

天国とひとつとなれば欠乏はなく、貧窮も投影されない。

永遠とひとつとなれば滅びはなく、病もない。

よって、ACIMではあらゆる問題の解決のプロセスはひとつとなる。

『#赦し→#奇跡→癒し』である。

争いの幻を赦せば、心はひとつとなる。

貧窮の幻を赦せば、心は天国を知る。

病の幻を赦せば、心は永遠の生命を見出す。

そして、#心が起こした#奇跡は、苦悩の根本原因を癒し、#聖霊の#愛と一体となった#心は、安らぎを意識に投影する。

苦悩の形は様々だが、奇跡はたったひとつの原因、神からの分離を癒しているのである。

心に奇跡が起きた結果、必ず癒しが訪れる。

#奇跡は手段であり、癒しが目的である。

スピリチュアル・ヒーリングのような形で癒しを体験することも当然あるが、ACIMでは、癒しは、患者にとって最も自然な形を取るので、千差万別としている(経済的援助が来て新治療を受けられるようになる。

病自体は直らないが、看病を通じて、きっかけとなった精神的ストレスを産んだ家族関係が改善される、など)。

ニューソートやクエーカーと対比される箇所だが、より広義的。

聖なる関係

#聖霊またはイエスの#愛に導かれ、#赦しの#レッスンが目的となった人間関係、または社会関係。

われわれが生まれてから関わるすべての家族、恋人、同僚、宿敵、社会、国家との関係は、愛憎関係の体験を目的としてエゴが書き上げた#脚本である。

この愛憎関係を、ACIMでは特別な関係(Special relationship)と呼ぶ。

エゴが投影した特別な関係下では、常に愛は条件付きとなり、限定的となる。

これによって、無条件の神の#愛はフィクションとなり、愛の名の下、憎しみや失望を体験できるようになった。

かくてエゴは現実と幻影を差し替えたが、聖霊は#赦しを通じて、愛憎関係を#癒し、特別な関係を聖なる関係に換えて、幻影を現実に差し戻してゆく。

聖霊、またはキリストの視界(Christ's Vision)には、肉体や人格の瑕疵は映らない(#赦し)。

この視界を借りて、人びとにキリストの顔を見出すとき、裁き合いに隠された恐怖が癒され、聖なる関係(Holy relationship)の構築が始まってゆく。

「世界をかえようとせず、世界を見る目をかえる」というのがACIMの趣旨である。

社会運動と近似的に対立する箇所。

幸福な夢

またはハッピードリーム(happy dream)。

ACIMの実践がもたらす人生。

#赦しの実践によって、エゴがしかけた人生の#脚本が次々と消去され、心からエゴの不幸感(憎しみ、苦悶、恐怖)が消え去ってゆく年月。

家族や同僚、社会、宿敵と持った愛憎関係(特別な関係)が#奇跡によって癒され、#聖なる関係へ次々とかわっていく様。

人生が#聖霊の#愛に癒された運命に切り替わり、自分を罰するようなシナリオ(#脚本)が次々と差し替えられていく過程。

神の現実(無条件の#愛)を生きながらに垣間見る#啓示を受け、やがて#救済に到達し、神の現実(天国)を反映した世界(実相世界。Real World)を体験する人生。

輪廻の卒業が近づく姿。

「奇跡講座」の受講生が、この人生劇場(夢)で求める幸福とはこれであり、ACIMの祈りはここに向けられる。

「大乗仏教的なキリスト教」と呼ばれる箇所。

啓示

一瞬、世界が消滅し、神の現実(無条件の#愛)を垣間見ること。

完全に恐怖が消えた心の状態。

視聴覚的にも体験されるが、視聴覚的に#知覚されたものゆえ一時的であり、#救済そのものではない。

赦しのレッスンが進んでエゴが消去されつつあることを示唆する、神から直接来る予測不能な体験。

ACIMの講義する#奇跡は、啓示を体験するための手段である。

奇跡は、心から恐怖を消去することで、無意識下にある神への恐怖を消去し、啓示を受ける準備を整えるからである。

エソテリック(神秘主義)と関連する箇所。

無限・無条件の、神の愛。

現実または天国と同義。

神の#救済を受け入れ、神と一体(#ワンネス)となったとき体験できる。

愛憎関係(Special relationship)の愛は、人間関係によって限定され、条件付きとなるため、愛のフェイクである。

神の愛のみが現実であるが、エゴが障壁となり、人間は愛憎関係しか体験できない事態にある。

#聖霊に導かれた#赦しは#癒しをもたらし、この愛憎関係を#聖なる関係へ#奇跡的に変える。

そのときわれわれは#キリストの顔を互いに垣間見て、この世界にあって、神の愛が反映された世界(実相 Real World)を体験し、神の愛と一体であった記憶を思い出すに至る。

人生の全てをこのような聖なる関係に変えたとき、人の眼は開かれ、神の#救済の手が見えるようになり、遂に神の愛そのものと一体となる。

ACIMは愛について語らず、愛の障碍を取り除くことについて、すなわち#赦しについて講義する。

障碍を取り除けば、自然と神の愛が反映された#聖なる関係を実現できるからである。

ACIMが行動ではなく、心のみを取り扱う所以である。

キリスト教的色彩の強い箇所。

創造

天地創造とも、芸術的創造とも異なる、ACIM特有の定義。

神と#神の子が一体となって永遠に活動を広げる様。

創造行為は永遠に今も続いている(※常識における今は、実際には過去の空想の追想である。#時間を参照)。

天国、#愛と同義。

神と神の子が創造しているのは天国である。

この世界と#肉体・人格は創造していない。

創造は、この#世界では到達不可能なものであり、ACIMでは講義しない。

ACIMはその現実を思い出す障碍(エゴ。裁きの感情)を取り除くこと(#赦しの#奇跡)を目的とする。

グノーシス主義や新プラトン主義と対比される箇所。

知識

通常の知識の意味ではない。

神と神の子が一体(#ワンネス)にある状態(天国)で経験する、創造行為に関する知識。

仏教の智慧と異なる。

「知るもの」(意識・主観)と「知られるもの」(客観・世界・幻影)に分裂した、二元的なこの世界では到達不可能の真理。

この世界は幻影で、#創造が行われている天国ではないからである。

この点、グノーシスとも新プラトン主義のヌースとも異なる。

ACIMが講義するのは神の知識への準備であり、知識そのものは認識不能なものとして講義しない。

この点、聖書=真理とするキリスト教全般の真理とも異なる。

「世界はシンボルにすぎず、言語はシンボルのシンボルで、現実を二度奪われている」ためである。

神の子からこの知識は一度たりとも損なわれたことがない。

ACIMは忘れ去った知識を思い出す障碍(エゴ。裁きの感情)を取り除くことを目的とする。

救済

最後の#奇跡。

#ワンネスに到達した状態。

贖いと同義。

「神から分離した」という、われわれ自身の誤信から救われた状態。

「完全な#神の子が、たとえ空想だとしても、どうしてこのような世界を思いついたのか?」という、ACIMに対する根本的な疑問は、説明不能であり、この救済を体験して初めて理解できるとしている。

それゆえ、ACIMは講座の目標を神学的理解ではなく、救済の実体験においている。

神からの分離を象徴する全ての出来事を#赦し、この世界に立ち現れるエゴの幻影に全く左右されず、すべてに#キリストの顔を見いだせるようになったとき、#心は、エゴが全て消去された状態にある。

心にはエゴが生み出したいかなる憎しみも欠乏も悲哀も浮かばず、神の#愛のみが意識に映るようになる。

#世界との関わりは全て#聖なる関係になっている(実相世界。Real World)。

このとき、心は、神の救いの手を認識できようになり、ついに神自らの手で、#心の誤信がつくった世界の幻から救い出される(Final Step)。

#神の子は、永遠に完全な神の子であったという現実へ覚醒して、アセンドする。

ACIMは、人の#心が、#赦しを通じて#奇跡を経験していくことで、救済の準備を整えきることを最終目標とする。

神が太古の幻影(この#世界)を消去した時に決まった、全ての人がたどり着く運命。

ACIM(奇跡講座)の奥義に相当。

トマス福音書、ヴェーダーンタ学派と対比される箇所。

【フロイト派心理学の関連用語】
ACIMの哲学的な位置づけは、ACIMを記したウィリアム・セットフォード教授とヘレン・シャックマン助教授および編者ケネス・ワプニック博士の専門であったフロイト派心理学のフレームワークを不二一元論的に再解釈したものである。

特にシャックマンとワプニックの専門であった児童心理学の大家アンナ・フロイトが創出した防衛機制のフレームワークが色濃く反映されている。

精神分析

ACIMではフロイトのフレームワークが反映されている。

エスは、#罪(神からの分離を夢想した時に得た恐怖と攻撃性。

ACIMの心理療法が取り除こうとする病因)に対応する。
超自我は、#聖霊または正しい心(無意識にある神の現実の記憶。

ACIMの心理療法はこの記憶を回復させようとする)に対応する。
エゴは、無意識にある#罪≒エスに侵された間違った心、すなわち幻影を現実世界として知覚している我々の意識(発症。ACIMの精神分析の対象)に該当する。

エゴ

エゴの定義は心理学と特に異なっており、ACIMにおいてエゴとは、「神からの分離が現実に起きた」という、根源的な妄想である、と定義されている。

そして個別の人格間が起こす矛盾と苦痛(すなわち全ての人の人生特別な関係と呼ぶ)を、この妄想が#神の子の#心に発症させた、いわば被害妄想型の統合失調に近い症例として捉えている。

#赦しは、神の子の心に現実を思い出させ、エゴという妄想を取り除き正常な#知覚を回復させる治療プロセスにあたり、これをACIMでは#奇跡と呼ぶ。

ACIMの定義する#奇跡は、フロイトの除反応に該当する。

ACIMにおいては意識(Consciousness)が従来のエゴに相当する。

無意識

ACIMにおいては、意識(主観、自己の人格)、無意識、世界(客観、他者の人格)の三者ともに、エゴを正当化し防衛するために生まれた心(精神に対応)の分裂状態である。

まず、「神から分離した」という根源的な妄想(ACIMにおけるエゴ。エスに対応)が生んだ恐怖と罪悪感を心の外に投影して、自己を正当化しようとする過程で生まれたのが意識(フロイトの自我に対応)と世界の幻影(幻覚に対応)である。

そして、妄想の繰り出す恐怖と罪悪感から自己を防衛するために、妄想を意識外へ抑圧して忘却することで無意識が発生したとする。

根源的な妄想を意図的に忘却する過程で、現実の記憶も忘却されており、妄想に包まれた意識に対し、無意識から働きかけるこの現実の記憶を聖霊(超自我に対応)と呼ぶ。

防衛機制

ACIMでは児童心理学の大家アンナ・フロイトの防衛機制に出てくる用語を再定義し、重要な概念として扱っている。

防衛、分離、投影、逃避、同一視、否定

抑圧、攻撃、合理化、置き換え、反動形成。

奇跡のコースの由来

初稿から初版の完成まで

ニューヨーク・コロンビア大学において上司部下の関係にあったウィリアム・セットフォード教授(CIAで諸外国要人の行動分析に従事した後、30代で同大学の学部長待遇で教授に。通称ビル)とシャックマン助教授(後に教授。セットフォードより13歳年上。主婦だったが40代で大学院に復学し、すぐ助教授に。通称ヘレン)の二人は、大学の臨床心理学部門を再編する指揮を取っており、学内と病院で政争を繰りかえす数百人のスタッフを管理する激務に翻弄され、同室ながら挨拶もしないほどの緊張下で、口論の耐えない日々を送っていた。

ある日、セットフォード教授が「他のやり方があるはずだ!」と叫んで、批判よりも赦しを選択して仕事を進めることを提案し、シャックマン助教授はこれに同意。

二人は大学のスタッフにはびこった最悪の雰囲気をおだやかなものにかえることに奇跡的に成功したが依然、二人の関係はシビアなものだった。

この決断以来、シャックマンには、過去生におけるセットフォードとの愛憎関係と、二人を助けようとするキリストの白昼夢・明晰夢を頻繁に見ることになる。

攻撃的な無神論者(※実家はユダヤ教だったがカトリックに強く惹かれており、成人後もよく日曜礼拝に参加していた)であり、フロイト派心理学の専門家でもあったシャックマンはこれに困惑。

困憊し、上司のセットフォードに打ち明けた。

セットフォードと思われる人物のせいでエジプトの砂漠でのたれ死んだビジョンを話した際、ふたりはその荒唐無稽な話題に研究者としては尋常ならざる激しい怒りを互いに覚え、取り乱したという。

不可知論者だったセットフォードはこれがきっかけで、そうした類の書物を調べるようになったがシャックマンは身に起こりつつあることへの恐怖感もあって、超常的な本を拒否し続けた。

セットフォードはやがて知人となったヒュー・リン・ケイシー(神秘家エドガー・ケイシーの息子)をシャックマンに紹介。

ケイシーと友情を築いたシャックマンは、科学者の自分に発現しつつあった予知能力や遠視などの超常能力への恐怖を克服していく。

口述筆記を始める直前のことである。

1965年、シャックマン博士は、強烈にリアルな夢を立て続けに見た。

夢の中で、イエス・キリストと思われる人物が語りかけてくると言うその夢の後、シャックマンには"声"(Voice)が聞こえてくるようになった。

「これは奇跡の講座です。ノートに取りなさい」 イエスと思われる声が聞こえるやいなや、スピードの速い「内なる口述」が始まり、シャックマンは必死で書き留めたという。

後年、シャックマンはインタビューで「声は、音声として聞こえたのでもなく、自動書記でもなく、インスピレーションとしかいいようのないもので、私の意識は日常とかわりありませんでした。

したがっていわゆるチャネリングではありません。」と答えている。

シャックマンはインスピレーションを、言語に変換する作業をしていたのであり、シャックマンがノートに推敲を重ねたことから、自動書記とも異なっている。

なおシャックマンによれば、文体の変更や削除などは自ら行っていない。

内なる声による細かな推敲の指示が、手書き原稿の随所にメモされている。

1965年から1972年の間、シャックマンの速記ノートは30冊に及んだ。

セットフォード博士が編纂を重ね、その資料は徐々に「コース(履修課程)」の形を取り始めた。

大学の同僚たちにこの荒唐無稽な研究を知られて失職することを恐れ、学部長であったセットフォードは自らの権限を使って専用のプライベートオフィスを設け、学内で編纂作業を続けた。

セットフォード博士は、超常に恐怖して中止しようとするシャックマン博士を何度も励まして筆記作業を続けさせた。

時には、シャックマンの震える肩に手を置きながら、彼女が読み上げるノートを片手でタイプしたという。

それをシャックマンがまず一人でチェックし、もういちど二人で校正するという流れで編集は進んでいった。

三稿の段階で章分けされタイトルが付けられた。

原本には彼らイエスからふたりへの個人的アドバイスが多く含まれていたが、それらは省略されて出版されるに至った。

『Urtext(原文)』として出回っている海賊版には、この個人的アドバイスが少なからず載っており、原本の流出と考えられる。

原稿の序盤(31章中の現1~4章)は、現在の版のような『講座』の形式ではなく、日記に近いものだった。

そこには前述のようにシャックマン、セットフォードの個人的な人生について多く触れられており、たとえばセックスに関する話題(セットフォード教授にはゲイの苦悩があった)などはコースの目的(行動面ではなく心理面のみをテーマとすること)がぼやけることがないように、出版に当たり削除された。

例えばUrtextには「奇跡の実演者は(セックスの正しい用途を)必ず理解していなければならない...[a] miracle worker MUST understand (the proper use of sex).」という文がある。

FIP創始者たちの過去世を示唆するアドバイスも少なからずあったが、出版に当たり「ACIMは独習用の講座であり特定の宗教の創始を意図しない」という信念に基づき、該当部分は削除された。

1970年、第3稿が、ヒュー・リン・ケイシーに贈呈された。

この中にはワークブックの原稿が含まれていた。

この稿を整えたヴァージョンがHLCヴァージョン、またはJCIMヴァージョンとして出回っている。

2000年、『イエスの奇跡講座 Jesus' Course in Miracles』という題で出版された。

1972年、コロンビア大のセットフォード門下で、シャックマンと同僚だったベネディクト・グロスケル神父が若いケネス・ワプニック博士(通称ケン)を二人に紹介した。

フランシスコ修道会士でかつ心理学の教授だったグロスケル神父は、ユダヤ教からカトリックへ転教して神父になりたいというワプニックの話題を聴いて興味を持ち、ワプニックの相談を受けた。

ワプニックの論文(聖テレサの神秘体験を心理学的見地から統合失調と比較・分析したもの)を学術誌で読み名前を覚えていたセットフォードは、神父との会話に出てきたワプニックに会いたいと申し出た。

ワプニックは当時、児童専門の心理療法士で、1967年から1972年までNY州立ハーレムヴァレー病院のチーフだった。

ワプニックは後にコースの主力教師となり、シャックマンたちが創始したコースの管理組織FIPの共同創始者となっている。

なお、のちに神父を通じて、両教授はマザー・テレサの訪問を、何度か受けている。

マザーは、発達障害児教育の第一人者だったシャックマンたちに、インドの孤児教育について相談に来ていた。

マザーの確信的な姿に心打たれたセットフォードは、懐疑的な留保を捨て、ACIMの#赦しを実践する人生に献身する決意を固めたという。

1973年、セットフォードとシャックマンはグロスケル神父とワプニックに第三稿を見せた。

ワプニックは『講座(A Course)』という題名にふさわしい、学術レベルの緻密な編集をヘレンに提案。

"声"から編集長に任命されていたセットフォードはこの編集をワプニックに一任し、その後13ヶ月間、シャックマンとワプニックで編集を重ねたという。

この編集で、いくつかの章やパラグラフの順序が変更され、一部削除され、章題が変更された。

1975年2月に編集は完了し、これが現在のFIP版となった。

FIP版は、出版に明るかったジュディシュ・スカッチ(ニューヨーク大学教授 トランスパーソナル心理学専攻 通称ジュディ)の賛同を得て出版に至った。

スカッチ教授はFIPの代表となったが、彼女がニューヨークのニューエイジ社会に影響力を持っていたこともあって、ACIMはニューエイジ社会にまずインパクトを与えることとなった。

だがシャックマン助教授もセットフォード教授も「神は世界を創っていない。

世界を幻想したのはエゴである」というACIMの世界観がニューエイジと対立することを認識しており、行動面においてもインド的なニューエイジのグルイズムと独習用講座であるACIMとが対立していることも承知していたため、二人は衆前で教師(グル)としてふるまうことを拒否し、いち学習者としてとどまることに終始した。

ACIMの教師は、子供のいなかったシャックマンが個人的にも息子のようにかわいがったACIM編者のワプニック博士にゆだねられることとなった。

ワプニックはいわゆる学者・神父的な性格でグルとは遠い人格であったため、ACIMのポピュラー化はACIMを題材にベストセラーを出した雄弁なマリアン・ウィリアムソンやゲイリー・レナードのような教師の登場を待つこととなった。

出版

ヘレン・シャックマン博士とウィリアム・セットフォード博士たちによって設立された組織は現在、FIP(Foundation For Inner Piece)という名で、ジュディ・スカッチ元教授とケネス・ワプニック博士によって運営されており、FIPから出版されたFIP版の(Conbined Volume)が公式な版となる。

FIP版の他、『原本』(UrText)バージョンと名付けられた編集前の版やHLCヴァージョンなどが市場に出ている。

このことは、ペンギンブックスとの契約にあたり、版権問題を引き起こしたが、判決が出ている(後述)。

初版と著作権登録の経緯

1971年10月21日、ACIMの版元となるFIP(Foundation for Inner Piece)がロバート・スカッチ(放送作家・舞台作家)、ジュディシュ・スカッチ・ウィトソン(ニューヨーク大学 トランスパーソナル心理学教授)の夫妻により創立された。

創立当時の組織名はFPI( Foundation for Para-Sensory Investigations, Inc)。

1975年5月29日、ダグラス・ディーン(工学エンジニア)がシャックマン、セットフォード、ワプニックをスカッチ夫妻に紹介。

ACIMをもらった夫妻は3人と意気投合し、以来、定期的に合い議論を重ねることとなり、3人もまたFIPの共同創始者に名を連ねるに至った。

1975年の時点でシャックマンはジュディ・スカッチとケネス・ワプニックにACIMの出版を許諾したようである。

1975年の中頃、ジュディ・スカッチは、自身の医療アドバイザーであり、フリーパーソンズ・プレスという小さな出版社を持っていたエレノア・クリスウェルに出版のことを相談した。

クリスウェルのアドバイスを受けたジュディ・スカッチは1975年8月、バークレイのコピーキャット・コピーセンターで100冊のコピー(黄色いカバーで著作権の宣言付だった)を制作。

サンフランシスコでレセプションを開催し、シャックマン、セットフォードの紹介と共にコピーを頒布した。

1975年11月24日、ロバート・スカッチは10月6日付でACIMの著作権を登録(著作権はFIP、編集はフリーパーソンズ・プレス)。

これはクリスウェル・ヴァージョンという名がついている。

ジュディ・スカッチはこのクリスウェル・バージョンの頒布用コピー(著作権登録前のコピー)を友人のゼルダ・サプリー(エリクソン教育基金 取締役)へ出版前に贈呈している。

1976年、このコピーがリード・エリクソン(性同一性障害専門の著名な心理療法士)の手に渡り、エリクソンはこのコピーを使ってメキシコで勉強会を開いた。

裕福だったエリクソンの経済的バックアップ( $440,000 )を得て、FIPはハードカバーのFIP版を自ら出版した。

出版から5年後の1981年に、シャックマンは膵臓がんで逝去。

がんの激痛で連日昏睡し、無意識に夫ルイスの名をヘレン・シャックマンは呼び続けたと言う。

臨終の際、安らかな笑顔を浮かべていたシャックマンに、看取った者たちは心を打たれた。

ルイスとともに立ち会ったワプニックは、「あなたの最期の日に、私は"個人的に"迎えにくるつもりだ」とシャックマンが筆記したイエスの個人的メッセージを思い出したという。

セットフォードは1988年の独立記念日に、心臓麻痺で逝去。

帰天の3日前、セットフォードは「自由!自由だ!ついに自由だ!」(#救済に到達したらしい)と叫んで終日ダンスしていたことが逸話となっている。

版権

1976年の初版以降、ACIMは、様々な私家版が出回ってきた。

しかし、1995年、FIPは普及のため、世界の出版業界二番手であるペンギン・ブックスに版権の使用を5年許可し、ペンギン・ブックスが出版にあたり版権の厳密な管理を求めて、FIPは私家版を発行する団体に出版停止を要請した。

しかしACIMを聖書のようなパブリック・ドメインと同列視する諸団体は引かず、1996年、The First Christian Church of Full Endeavor が告訴された(ウィスコンシン州)。

判決ではジュディシュ・スカッチ・ウィトソン教授(FIP創立メンバー)の"(Prior to 1976) we printed hundreds of copies of (the Criswell edition of ACIM on a Xerox machine)"というメモが証拠となり、初版の大部分は版権フリーとなり、FIPの許諾無しで引用が可能になった。

しかし序文、ナンバリングシステム、用語解説、附属の小冊子など重要カ所の版権保護が認められ、本の出版としての版権は維持されたと言える。

2005年、アメリカ特許管理局(United States Patent and Tradmark Office)はA Course In MiraclesとACIMの商標登録を取り消した。

翻訳

2010年12月4日にナチュラル・スピリット社から邦訳(『奇跡のコース』)が出版された。

訳者は、マリアン・ウィリアムソンやジェラルド・ジャンポルスキー、ジョーン・ガトゥーソなどACIM関連書籍の翻訳を手がけてきた大内博(玉川大学元教授 英語学)。

ナチュラルスピリット版はFIP非公認。

初版は著作権フリー(#版権)のため著作権上の問題はないが、FIPが著作権を持つ用語集・『祈りの歌』・『心理療法』は含まれない。

大内訳とは別にFACIMワプニック博士の監督下でFIP公認版の邦訳(『奇跡講座』)も存在する。

公認版はJACIMの加藤三代子・澤井美子による共訳で、中央アート出版社より出版された。

奇跡のコースと他の思想との関連性

ACIMの哲学はキリスト教的内容およびフロイト派心理学の範疇にとどまらず多岐に渡る。

歴史的には大乗仏教、プラトン主義、ネオプラトニズム(新プラトン主義)、神秘主義、グノーシス主義。

ポストモダンとしてはポスト・フロイト主義、トランスパーソナル心理学、ニューソート、脱構築主義との共通点が指摘されている。

典型的なニューエイジの思想とは反する部分が多い。

ACIMは、フロイト派心理学によるエゴの概念を脱構築主義的に再定義しており、カテゴライズ(切り分け)を本分とする人間の思考が本質的に持っている分離作用をエゴと捉える。

そして、思考の過程で対象(他人や社会)に投影された分裂的定義(自分とは異なる利害関係のある他人)を#赦していくことで、エゴの投影した分裂的定義を解体し、形の差異ではなくコンテンツの同一性(中身は同じ#心を持った人間)を基礎とした関係の再構築(#聖なる関係)を目指す。

つまりACIMは、脱構築主義者が目指した二元性的対立の解体と一元性的融和の再構築を、心理療法的アプローチとも言える#赦しを通じて目指しており、ポスト・フロイト主義の系譜にある。

「神は物理的世界を創っていない」という世界観は、グノーシス主義との関わりが言及される。

グノーシス主義が「この世界はデミウールゴス(偽神)が創った悪の世界」ととらえるのに対し、ACIMは「この世界もエゴも幻影であり存在しないが、聖霊の手にかかれば、人が神の現実へ還るために欠かせない、#赦しの#レッスンの場となる」ととらえる点が異なる。

ACIMを編集したワプニック博士は、ACIMとグノーシス主義を比較分析した本を上梓した。
プラトン主義やニューソートとの関わりを言及されることが多い。

プラトン主義ではこの世界を「真実の世界の影」ととらえるのに対し、ACIMはこの世界は「世界は存在せず、幻影は真実と一切の関わりがない」と位置づけている点が異なる。
「この世界は幻影に過ぎない」という部分は、インド哲学アドヴァイタ・ヴェーダーンタ(不二一元論)やその流れを受けた密教、インド哲学ヨーガ派のヴィヴェーカーナンダ(ギャーナ・ヨーガ)と相似する。

ACIMの共著者ウィリアム・セットフォードは「ACIMはキリスト教的アドヴァイダ・ヴェーダーンタである」と評したことがあり、ACIMがヴェーダーンタと同じく不二一元論(「神・ブラフマンのみが現実であり、神以外のものはエゴ・偽我の見ている幻影・マーヤーである」とする説)に属することを示している。

ACIMの特異点は、幻影から現実へ帰るメソッドを、#赦しの#レッスンに絞り、これをワークブックにまとめている点である。

「世界はエゴの創作であり、愛と赦しの実践によってエゴを消去することにより、神の世界(Heaven)に還ることができる」という主張は、キリスト教の大乗仏教的解釈として言及されることもある。

相違点は、仏教が「渇望」を生の原因とし、渇望を満たそうとする執着から離れることをメソッドにするのに対し、ACIMは「神からの分離」が満たされない心(渇望)の原因と見て、神から離れた心を、赦しによって癒すことをメソッドとする点である。

「エゴの終焉」という概念は、ラマナ・マハルシ、鈴木大拙、クリシュナムルティなどの東洋思想家を想起させるが、実際、現在のFACIMの代表ワプニック博士がラマナ・マハルシ、クリシュナムルティに言及することもあり、親和性は高い。

エゴを終焉させるレッスンを、#赦しをテーマにしたワークブックにまとめている点が、ACIMの特徴ともいえる。

「クリシュナムルティの精神的後継者」と目されることの多いエックハルト・トールが影響を受けたと自ら述べているものの中にACIMがあり、事実、彼の著書『Stillness Speaks』(『世界でいちばん古くて大切なスピリチュアルの教え』)は、ACIMのワークブックを彷彿させる体裁が取られている。

トールや禅が「今、ある」ことによってエゴからの支配から逃れるのに対し、ACIMは時間の幻影を生み出しているエゴを赦しによって消去することで「今、ある」ことが出来るようになるとする点が異なる。

キリスト教との比較

ACIMの履修内容は心理面に限定されており、行動面は一切ふれないので、三位一体説との比較にフォーカスした。

なお、ACIMはキリスト教を自認しない。

キリスト教との継続を見出そうとするのは「時間の無駄」と退け、#赦しの#レッスンに専念することを勧めている。

ACIMでは、父と子が#創造したのは天国であり、この#世界は幻影に過ぎず創っていない。

これがカトリック・プロテスタント・正教会・ユニテリアン諸派の世界観との最大の相違点である。
偽神や悪魔が世界を創造したのではない。

エゴが創作したが、神に消去された幻影。

それがこの世界であり、#世界は存在せずエゴも存在しない。

神のみが現実として存在する。

よって二元論ではなく、不二一元論の範疇に入る。

これがグノーシス主義の世界観との最大の相違点である。

物質は(偽神ではなく)エゴの創作だとする考え方は、マグダラのマリアによる福音書に見られる。
父は人格を持たない。

この点はユニテリアンに近い。

人間の人格を含め、全ての人格はエゴの幻影であり存在しないとする点がユニテリアンと異なる。

楽園から子を追放したのは父ではなく、子が勝手に出て行って父はずっと待っている。

すなわち、旧約聖書の楽園追放と、新約聖書における放蕩息子の喩えとの矛盾は、前者を否定し、後者を肯定しており、パウロ神学のような旧約・新約の整合は考えない。

#神の子はひとりである。

だが「ひとり」とは数十億のなかのイエスひとりという意味ではない。

複数の肉体・人格はエゴの幻影であり存在しないから、神の子は「ひとり」なのである。

ここが既存の正統・異端のどこにもあてはまらない、ACIMの最大の特徴といえる。

神は原因(創造)であり、神の子は結果(被創造)であるが、神は神の子に創造の力を与えたので、本質において神と神の子は同一であるとする。

歴史上のイエスは、神の子に復活したので本質的に、神と同一となる。

よってユニテリアンよりもカトリックに近いが、神と神の子の区別を設ける点でカトリックよりも正教会の神学に近い。

イエスが神の子となったとする考えは、聖書的ユニテリアン派のソチニアニスムを想起させるが、人間の存在は幻影であり、神の子のみが常に現実として存在する(キリストは原初から永遠にキリストである)というホログラフィックな#時間の把握により、ソチニアニスムとも異なっている。

子は父から創造の力を与えられたので、創造は父と子がおこなう。

父と子の#創造活動は今も神の現実のなか(天国)で続いているが、物理世界と#肉体・人格は、エゴの創作であり、神から与えられた神の子の創造力の結果ではないので、神の現実には存在しない太古の幻影である。

#奇跡は#創造の投影であり依然、幻影世界の枠内にあり、世界の中で神の現実を示すシンボルとして起こるとする。
イエス・キリストと我々の本質(内なるキリスト)は同一であるとするが、もちろん我々のエゴ(肉体と人格)はイエス・キリストと同一とはならない。

だが我々がイエスを特別扱いする限り、イエスと我々を隔てるエゴを消去できないので、我々は内なるキリストを見出せず、救済に到達できないとする。

処女生誕の話題については一切ふれない。

肉体ではなく#心のみをテーマにした講座であるためと思われる。

肉体は全て幻影であるため、イエスの肉体のみ幻である(仮現説)とか、イエスは肉体を持ったから現実である(カトリック)という考えはない。

ACIMでは、世界は幻影で、キリストのみが現実である。
全ての#肉体は幻であり存在しない。

よってキリストの人性は存在しないことになり、この点、ネストリウス派ともカトリックとも異なっている。

教会については一切ふれない。

右の理由によると思われる。

(1)独習用の講座であるため (2)教会=体という概念は、心のみを扱う講座の趣旨に合わないため
独習用の講座のため、聖職者(カトリック)や、使徒性を継いだ牧師(プロテスタント)について、一切ふれない。

かわりに、ワークブック(#実践を参照)を修了し、日々、#赦しを実践するものを教師と呼ぶ。

行動面は講義にふくまれないため、クリスマスや復活祭など典礼暦の定めはないが、両祝日を#心から祝福する内容となっている。

聖霊

神の言葉(Words of God)は神の子ではなく#聖霊の存在である。

この点が三位一体説と異なっている。

聖霊の語る言葉は、神へいざなう声(Voice for God)である。

歴史上のイエスは聖霊と一体となったので、イエスの存在は神の言葉であり、イエスの言葉は神へ誘う言葉という位置づけになる。

聖霊は全ての人間のそばにいる。

人間が聞くのは聖霊の声(神へいざなう声)であり、神の声ではない。

神の声は聖霊の存在である。

ACIMの内容は、聖霊と一体となったイエスから来たインスピレーションとしている(#由来)ので、ACIMの内容は、神の言葉(Words of God)ではなく、神へいざなう声(Voice for God)とされる。

愛は、聖霊独自の属性ではなく、神の#愛を三者が同一に持つとする。

神の子と同じように、神が原因で聖霊が結果であるが、神と聖霊は一体であるとするので、アリウス派とは異なる。

聖霊は父からの流出ではなく、父と子からの流出となる。

この点、正教会よりカトリックに近いが、子からの流出の比重が重い点が異なる(#心を参照)。

洗礼に相当するのは、日常生活における#赦しの#レッスンである。

ACIMは#心のみに限定した講義だからである。

赦しは、聖霊と神の子が関わり、その結果が神の#救済(永遠の生命は一度たりとも損なわれていないという現実)である。

このようにACIMでは、我々とイエスの差異よりも、キリストという本質における同一を強調する形で、三位一体説の用語が使用されるが、歴史上のイエスの特別性を記述する箇所もある。

イエスは史上初めて、神の#救済計画を完全にこなした存在であり、それゆえ、人類の救済計画の全てをまかされ、神の全ての力を預かる存在とされる。

総体的には、グノーシス主義的だがグノーシス主義そのものではないトマス福音書が、ACIMにもっとも近い色彩を持っているといえる。

用語#ワンネスを参照。