ネコによる福音書

~愛と癒しのスピリチュアルメッセージ~

ラマナ・マハルシとの対話集『私は誰か?』―Nekopedia

ようこそ。
愛と光の天使たち。
聖なる悟りの教示者たちよ。
わたしはあなたのことを愛しています。
 
今日は20世紀インド最大の覚者、ラマナ・マハルシの教えをご紹介します。 
 
ラマナ・マハルシについての詳細は下記のウィキペディアのリンクをご覧ください。 
 
 
あなたにとって彼の教えとの出会いが、素晴らしいものとなりますように。
 
※この記事の内容は、『あるがままに―ラマナ・マハルシの教え』の巻末に収録されている対話集「私は誰か?」を引用したものです。
※「私は誰か?」には、ラマナ・マハルシの教えの中で最も大切な部分がまとめられています。
 
下記のリンクにPDFファイルもアップされています。
 
 
あるがままに ― ラマナ・マハルシの教え

あるがままに ― ラマナ・マハルシの教え

  • 作者: デーヴィッド・ゴッドマン,福間巖
  • 出版社/メーカー: ナチュラルスピリット
  • 発売日: 2005/12/01
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
  • 購入: 6人 クリック: 27回
  • この商品を含むブログ (3件) を見る
 

 

 


Who am I? ラマナ・マハルシ「私は誰か?」【全28通読】 Sri Ramana Maharshi

 

ラマナ・マハルシとの対話集『私は誰か?』

 

生きとし生けるものは、いつでも幸福であることを願い、不幸でないことを願っている。

 

誰にとっても、そこには自分自身への至上の愛が見られる。

 

そして幸福だけがその愛の源なのである。

 

それゆえ、人間の本性である幸福、想念のない深い眠りのなかで体験される幸福を手に入れるために、人は自分自身を知らねばならない。

 

そのためには、「私は誰か?」という問いで探究する知識(ジニャーナ)の道が最も重要な方法である。

 

1.私とは誰でしょうか?


七つの要素からなる粗大な身体、それは私ではない。

五つの感覚器官、聴覚、触覚、視覚、味覚、嗅覚は、それぞれの対象である音、感触、色、味、匂いをとらえるが、私はそれらではない。

五つの能動的な器官である、言語器官、運動器官、認識器官、排泄器官、生殖器官はそれぞれ、話すこと、動くこと、理解すること、排泄すること、楽しむことという働きをするが、私はそれらではない。


五つの生気、すなちプラーナなどは呼気などの五つの働きをするが、それは私ではない。


ものごとを考える心でさえ、私ではない。

対象の印象だけが刻み込まれた無知も、対象物も働きもない無知も、私ではない。

訳注1 七つの要素
栄養液、血液、肉、脂肪、髄、精子

訳注2 五つの生気
パンチャ・プラーナ 身体で働いている五つのプラーナ

アパーナ、下降する気。プラーナ、上昇する気。サマーナ、食べ物をアパーナに運ぶ気。
ヴィヤーナ、プラーナとアパーナをとらえる気。ウダーナ、食べ物や飲み物を上下に運ぶ気。

 

2.もし私がこれらのものでないなら、私は誰でしょうか?

 
今述べたことすべてを、「これではない」「これではない」と否定していったあとに、ただひとつ残る覚醒―――それが私である。
 

3.覚醒の本性とは何でしょうか?


覚醒の本性は、存在―意識―至福である。
 

4.真我の実現はいつ得られるのでしょうか?


「見られるもの」である世界が取り除かれたとき、「見る者」である真我は実現されるだろう。
 

5.世界が(実在として)存在しているときでさえ真我が実現されるということはないのでしょうか?


ないだろう。
 

6.なぜでしょうか?

 
見る者と見られている対象は、ロープと蛇のようなものである。

錯覚である蛇という知識がなくならない限り、実体であるロープという知識は得られない。

同じように世界が実在であるという確信がなくならない限り、実在である真我の実現は得られないだろう。
 

7.対象として見られている世界は、いつ消え去るのでしょうか?


すべての認識作用とすべての行為を引き起こす原因である心が静かになったとき、世界は消え去るだろう。
 

8.心の本性とは何でしょうか?


「心」と呼ばれているものは、真我に内在する驚くべき力である。

心はすべての想念を起こさせる源である。

想念を離れて心のようなものは実在しない。

それゆえ、想念が心の本性である。

想念を離れて、世界と呼ばれる独立した実体があるわけではない。

深い眠りの中に想念はなく、世界もない。

クモが自分の中から糸を出し、それをまた自分の中に引き入れるのと同じように、心はそれ自身から世界を投影し、再びそれ自身の中へ還元させる。

真我の中から心が外に出るとき、世界が現われる。

それゆえ、世界が(実在として)現われているとき、真我は現われない。

人が絶え間なく心の本性を探究し続けるならば、心は真我をあとにして死滅するだろう。

「真我」と呼ばれているものは、アートマンである。

心はつねに何か粗大なものに依存することによってのみ存在する。

それはひとりであることができない。

微細身あるいは個我(ジーヴァ)と呼ばれているのは、心である。
 

9.心の本性を理解する探究の道とは何でしょうか?


身体の中に、「私」として立ち現われるものが心である。

もし身体の中のどこに、「私」という想念が最初に現われるかを探究するなら、それはハートの中に現われることが発見されるだろう。

そこが心の起源となる場所である。

絶えず、「私」、「私」と考えても、人はその場所に導かれていくだろう。

心の中に現われるすべての想念の中で、最初に現われるのは「私」という想念である。

この想念が現われたあとにのみ、他の想念が現われる。

二人称と三人称の人称代名詞が現われるのは、一人称が現われたあとのことである。

一人称がなければ、二人称、三人称も存在しないだろう。
 

10、どうすれば心は静かになるのでしょうか?

 
「私は誰か?」と尋ねることによってである。

「私は誰か?」という想念は他のすべての想念を破壊するだろう。

そして燃えている薪の山をかき混ぜる木の棒のように、ついには、「私は誰か?」という想念そのものも滅ぼされてしまうだろう。
 
そのとき真我は実現されるだろう。
 

11.「私は誰か?」という想念を絶えず心に保つにはどうすればよいでしょうか?


他の想念が起こっても、それを追いかけることをやめ、「この想念は誰に起こったのだろうか?」と尋ねるべきである。
 
どんなに多くの想念が起ころうとかまわない。
 
想念が起こるたびに、「この想念は誰に起こってきたのか?」と入念に探究すべきである。

それに対して現われる答えは、「私に」だろう。

そこですぐに「私は誰か?」と探究すれば、心は源に引き戻され、起こった想念は静まるだろう。

このように修練を繰り返せば、心は源にとどまることに熟達するだろう。

微細な心が脳や感覚器官を通って外に出ると、粗大な名前や形が現われる。

心がハートの中にとどまっていれば、名前と形は消え去る。

心を外に出さずにハートの中にとどめておくことは、「内にあること」(アンタール・ムカ)と呼ばれる。

心をハートから外へ出させることは、「外へ向かうこと」(バヒール・ムカ)として知られる。

このように、心がハートの中にとどまっているとき、すべての想念の源である「私」は消え去り、永遠に存在する真我が輝き出す。

人は何をするときにも、「私」という自我性なしにそれをすべきである。

もしそのように行動すれば、すべてはシヴァ神の本性として現われるだろう。
 

12.心を静かにする他の方法はないのでしょうか?

 
探究以外に適切な方法はない。

他の方法で静めても、心は制御されたように見えるだけで、再び勢いを増して現われるだろう。

呼吸の制御によっても心は静められるが、それは呼吸が制御されている間のことだけであり、呼吸が元に戻れば心もまた活動を始め、潜在する印象に駆り立てられて さまよい出すだろう。

心も呼吸も、その源は同じである。

想念とは、実は心の本性である。

「私」という想念が心の最初の想念であり、それが自我性である。

自我が生まれ出る同じ場所から呼吸も生まれる。

そのため、心が静かになれば呼吸も制御され、呼吸が制御されれば心も制御される。

けれども深い眠りの中では、心は静かでありながら呼吸は止まっていない。

これは、身体が維持されるように、そして死んでしまったと他の人々が思わないようにとの神の意思によるものである。

目覚めの状態とサマーディにあっては、心が静まっていれば呼吸は制御されている。

呼吸は心の粗大な姿である。

死の時までは、心は身体の中に呼吸を保っている。

身体が死ぬと、心は呼吸と共に出て行く。

それゆえ、呼吸を制御する修練は心を静める(マノニグラハ)助けに過ぎず、心の消滅(マノナーシャ)をもたらすことはない。

呼吸を制御する修練と同じように、神の姿に瞑想することや、マントラの復唱、断食などの修練も、心を静める助けに過ぎない。

神の姿に瞑想することや、マントラの復唱を通じて、心は一点に集中される。

心は常にさまよい続けるだろう。

鼻を鎖でつながれた象が、他の何もつかまえられないように、心も神の御名や姿に満たされていれば、他の対象をとらえることはないだろう。

心が無数の想念へと拡散しているとき、そのひとつひとつの想念は弱いものとなる。

だが、想念が決意を固めて一点に集中すれば、強いものとなる。

そのような心にとって、真我を探究することは容易になるだろう。

すべての規則制限の中でも、適度な量の清らかな(サートヴィック)な食事を摂るという方法が最上のものである。

これを守ることによって、心の清らかさは増し、真我探究の助けとなるだろう。
 

13.心に残ったものごとの印象が、海の波のように際限なく現われてきます。いつになったらそれらすべてがぬぐい去られるのでしょうか?


真我への瞑想が高まれば高まるほど、それらの想念は破壊されるだろう。
 

14.数知れない過去生から蓄積されてきた、心に刻まれたものごとの印象が取り除かれ純粋な真我としてとどまることは可能でしょうか?


可能か、可能でないかという疑問に屈することなく、真我への瞑想を続けるべきである。

たとえ、人が大罪人であるとしても、「ああ、私は大罪人だ。どうすれば救われるのだろう?」と思い悩み、嘆き悲しむべきではない。

「私は罪人だ」という想念を完全に棄て去り、真我への瞑想に強烈に集中するべきである。

そうすれば、確実にうまくいくだろう。

ひとつは善く、もうひとつは悪いという二つの心があるのではない。

心はただひとつだ。

幸運と不運の二種類があるのは、心ではなく、心に刻まれる印象である。

心が幸運な印象の影響を受けたとき、それは善と呼ばれ、不運な印象の影響を受けたとき、それは悪と見なされる。

心は世間のものごとや他の人々に関することへさまよい出ぬよう、戒められなければならない。

他の人がどれほど悪くとも、彼に対して憎しみを抱かぬようにしなければならない。

欲望と憎しみは、どちらも避けなければならない。

人が他の人々に与えるすべては、実は自分自身に与えているのだ。

もしこれらの真理が理解されるなら、人々に施しをしないでいられようか。

自己が現われると、すべてが立ち現われ、自己が静まれば、すべては静まる。

謙遜を忘れないならば、それに応じてよい結果が現われるだろう。

心が静寂に帰すれば、人はどこででも生きていくことができる。
 

15.探究はどのくらいの期間 修練されるべきでしょうか?


心の中にものごとの印象がある限り、「私は誰か?」と尋ねなければならない。

想念が起こったなら、そのとき、その起こったまさにその場で問うことによって破壊されるべきである。

もし真我に到達されるまで、不断の真我の黙想に打ち込めば、それだけで想念は消滅するだろう。

要塞の中に敵がいる限り、敵は反撃を続けるだろう。

もし敵が姿を現すたびに滅ぼしていけば、要塞は我々の手中に落ちるだろう。
 

16.真我の本性とは何でしょうか?


真実、存在するのは真我だけである。

世界、個我、神は真珠貝の中の銀色の輝きのように、真我の内に現われるものである。

これら三つは同時に現われ、同時に消え去る。

「私」という想念が絶対にないところ、それが真我である

それは沈黙と呼ばれる。

真我そのものが世界であり、真我そのものが「私」であり、真我そのものが神である。

すべてはシヴァ、真我である。
 

17.すべては神のなせるわざではないのでしょうか?


欲望も決意も努力もなしに太陽は昇る。

太陽がただそこに存在するだけで、日長石は火を発し、蓮の花は開き、水は蒸発していく。

磁力が存在することによって磁石の針が動くように、人々が三つの宇宙的機能や五つの神聖な活動に支配され、

それぞれのカルマに従って行為し、そして休息するのは、ただ神が存在しているという美徳によるものである。

神は何の意思も持たず、いかなるカルマも彼に属さない。

それは、世間の行為が太陽に影響を与えず、すべてに遍在するエーテル(虚空)が他の四元素の長所や短所に影響されないのと同じである。

訳注3 三つの宇宙的機能
創造、維持、破壊

訳注4 五つの神聖な活動
パンチャ・ヤジュニャと呼ばれるヒンドゥー教徒の義務。
「ヴェーダ」の学習、祖霊への食物の供養、ホーマの献火、
すべての生き物への食物の供養、人間への供養
 

18.帰依者の中で最もすぐれているのはどのような人でしょうか?


神である真我に自分自身をゆだねきった人が、最もすぐれた帰依者である。

自分自身を神にゆだねるとは、真我という想念以外のいかなる想念も起こることを許さず、ひたすら真我の内にとどまっていることである。

どんな重荷を負わされようと、神はそれに耐える。

神の至高の力がすべてのものごとを動かしているというのに、なぜ我々はその力に身をまかせず、何をどうするべきか、どうすべきではないかと思い悩むのだろうか?

我々は列車がすべての荷物を運んでくれることを知っている。

列車に乗ってまでも、自分の小さな荷物を頭に載せて苦労する必要がどこにあろう。
 
荷物を下ろして安心しなさい。
 

19.無執着とはどういうことでしょうか?


想念が起こると共に、その起こったまさにその場所で、あますことなく完全に消滅させること、それが無執着である。

真珠採りが自分の腰に石をくくりつけて潜り、海底に沈む真珠を採るように、誰もが無執着と共に自己の内に深く潜り、真我という真珠を手に入れなければならない。
 

20.神やグルは、魂の解脱をもたらすことはできないのでしょうか?

 
神やグルは解放への道を示すだけだろう。

神やグルが人を解脱の状態に連れて行くわけではない。

実際は神とグルとは異なるものではない。

トラの顎にくわえられた獲物に逃れるすべがないように、グルの慈悲深い眼差しにとらえられた者は、グルによって救われ、見捨てられることはないだろう。

けれどもひとりひとりは、神あるいはグルによって示された道を自分自身の努力で究め解脱に達しなければならない。

人はただ自分の智慧の目によってのみ、自分自身を知ることができる。

ラーマ神がラーマ神であることを知るために、鏡の助けが必要だろうか?
 

21.解脱を熱望する者にとって、意識の構成要素を探究する必要はあるのでしょうか?


ゴミを捨てたいと思っている人にとって、その中身を分析したり、それが何であるか調べたりする必要がないように、真我を知ろうとする人にとっても、意識の性質を調べたり、その構成要素を分析して数えたりする必要はない。

彼がすべきことは、真我を覆い隠している構成要素のすべてを払いのけることである。

世界はひとつの夢のようなものと見なされなければならない。


22.目覚めと夢見の間に違いはないのでしょうか?


目覚めている間は長く、夢を見ている時間は短い。

これより他に何の違いもない。

目覚めの間に起こることが真実に見えるように、夢の中で起こることも夢の中では真実に見える。

夢の中では心はもうひとつの身体をとっている。

目覚めの状態でも、夢見の状態でも、想念、名前、形は同時に現われるのである。
 

23.解脱を願うものにとって、本を読むことにはどんな価値があるでしょうか?


すべての聖典は、解脱を得るためには心を静かに保たねばならないと述べている。

それゆえ、心を静かに保つべきだということが聖典の最終的な教えである。

ひとたびこれが理解されたなら、際限なく本を読む必要はない。

心を静めるには、人はただ自分自身の内に、真我とは何かと問い続けるべきである。

この探究がどうして書物の中でできるだろうか?

人は自分自身の智慧の目で、自分の真我を知るべきである。

真我は五つの鞘の内にあるが、書物はその外にある。

真我は五つの鞘を棄て去っていくことで探究されるべきものであるため、それを書物の中に求めるのは無駄なことである。

いずれは学んだことすべてを忘れ去らなくてはならないときが来るだろう。

訳注5  五つの鞘
パンチャ・コーシャ 真我を覆い隠す五つの身体の鞘
アンナーマヤ・コーシャ、身体の鞘。プラーナーマヤ・コーシャ、生気の鞘。
マノマヤ・コーシャ、心の鞘。ヴィジーニャーナマヤ・コーシャ、知性の鞘。
アーナンダマヤ・コーシャ、至福の鞘。
 

24.幸福とは何でしょうか?


幸福とは真我の本性そのものである。

幸福と真我は別のものではない。

世界のいかなるものごとの中にも幸福はない。

我々は無智ゆえに、ものごとから幸福を得るものだと思っている。

心が外へ出て行くと、不幸を体験する。

心の願いが満たされたとき、実は、心は自己本来の場所に戻っており、真我である幸福を楽しむのである。

同じように、眠りの状態、サマーディ、失神状態、あるいは得たいと願っていたものが得られたり、嫌っていたものが消え去ったりしたときには、心は内面に向かい、純粋な真我を楽しむのである。

このように心は休むことなく動き回り、真我からさまよい出ては、また戻ってくるということを繰り返している。

木陰は気持ちいいが、外では太陽が焼けつくようだ。

灼熱の太陽の中を歩いてきた人が木陰にたどり着けば涼しいと感じる。

木陰からわざわざ猛暑の中を行き、それからまた木陰に戻ってくるのは愚かなことである。

賢い人はずっと木陰にとどまっているだろう。

同じように、真理を知る人の心は、ブラフマンを離れることはない。

その反対に無智な人の心は、悲惨を味わいながら世界をさまよい歩き、つかの間の幸福を味わうためにブラフマンに戻ってくる。

実際には、世界と呼ばれているものはただの想念にすぎない。

世界が消え去ったとき、つまり想念が存在しないとき、心は幸福を体験するのである。

世界が現われると、不幸を味わうのである。
 

25.洞察力(ジニャーナ―ドリシュティ)とは何でしょうか?


静寂にあることが洞察力と呼ばれている。

静寂にあるということは、真我の中に心を帰り着かせることである。

過去、現在、未来の出来事を知るテレパシーや千里眼は洞察力ではない。
 

26.無欲と智慧にはどんな関係があるのでしょうか?


無欲が智慧である。

二つは別のものではない。

それは同じである。

無欲とは、心がいかなる対象物に向かうことも差し控えることである。

智慧とは、何の対象物も現われないことを意味している。

言い換えれば、真我以外の何ものも求めないことが無執着あるいは無欲であり、真我を決して離れないことが智慧である。
 

27.探究と瞑想の違いは何でしょうか?


探究とは、真我の中に心をとどめておくことである。

瞑想とは、自己をブラフマン、つまり存在―意識―至福であると思いなすことである。
 

28.解脱とは何でしょうか?


束縛されている自己の本性を探究すること、その真の本性を悟ることが解脱である。